を考えて悩ましく思った。婆やが来てそこへ寝床を敷いてくれる頃には、深い秋雨の戸の外を通り過ぎる音がした。その晩はおげんは娘と婆やと三人枕を並べて、夜遅くまで寝床の中でも話した。
翌日は小山の養子の兄が家の方からこの医院に着いた。いよいよみんなに暇乞《いとまご》いして停車場の方へ行く時が来て見ると、住慣れた家を離れるつもりであの小山の古い屋敷を出て来た時の心持がはっきりとおげんの胸に来た。その時こそ、おげんはほんとうに一切から離れて自分の最後の「隠れ家」を求めに行くような心地もして来た。お新と婆やは、どうせ同じ路を帰るのだからと言って、そこまで汽車を見送ろうとしてくれた。こうして四人のものは、停車場を立った。
汽車は二つばかり駅を通り過ぎた。二つ目の停車場ではお新も婆やもあわただしく車から降りた。
養子の兄はおげんに、
「小山の家の衆がみんな裏口へ出て待受けていますで、汽車の窓から挨拶《あいさつ》さっせるがいい」
こう言った頃は、おげんの住慣れた田舎町の石を載せた板屋根が窓の外に動いて見えた。もう小山の墓のあたりまで来た、もう桑畠の崖《がけ》の下まで来た、といううちに、高い石垣の上に並んだ人達からこちらを呼ぶ声が起った。家の裏口に出てカルサン穿《ば》きで挨拶する養子、帽子を振る三吉、番頭、小僧の店のものから女衆まで、殆《ほと》んど一目におげんの立つ窓から見えた。
「おばあさん――おばあさん」
と三吉が振って見せる帽子も見えなくなる頃は、小山の家の奥座敷の板屋根も、今の養子の苦心に成った土蔵の白壁も、瞬《またた》く間におげんの眼から消えた。汽車は黒い煙をところどころに残し、旧《ふる》い駅路の破壊し尽くされた跡のような鉄道の線路に添うて、その町はずれをも離れた。
おげんはがっかりと窓際《まどぎわ》に腰掛けた。彼女は六十の歳になって浮浪を始めたような自己《おのれ》の姿を胸に描かずにはいられなかった。しかし自分の長い結婚生活が結局女の破産に終ったとは考えたくなかった。小山から縁談があって嫁《とつ》いで来た若い娘の日から、すくなくとも彼女の力に出来るだけのことは為《し》たと信じていたからで。彼女は旦那の忘れ形見ともいうべきお新と共に、どうかしてもっと生甲斐《いきがい》のあることを探したいと心に思っていた。そんなことを遠い夢のように考えて、諏訪湖《すわこ》の先まで乗って行くうちに、汽車の中で日が暮れた。
おげんは養子の兄に助けられながら、その翌日久し振で東京に近い空を望んだ。新宿から品川行に乗換えて、あの停車場で降りてからも弟達の居るところまでは、別な車で坂道を上らなければならなかった。おげんはとぼとぼとした車夫の歩みを辻車の上から眺《なが》めながら、右に曲り左に曲りして登って行く坂道を半分夢のように辿《たど》った。
弟達――二番目の直次と三番目の熊吉とは同じ住居でおげんの上京を迎えてくれた。おげんが心あてにして訪ねて行った熊吉はまだ外国の旅から帰ったばかりで、しばらく直次の家に同居する時であった。直次の家族は年寄から子供まで入れて六人もあった上に、熊吉の子供が二人も一緒に居たから、おげんは同行の養子の兄と共に可成《かなり》賑《にぎや》かなごちゃごちゃとしたところへ着いた。入れ替り立ち替りそこへ挨拶に来る親戚に逢って見ると、直次の養母はまだ達者で、頭の禿《はげ》もつやつやとしていて、腰もそんなに曲っているとは見えなかった。このおばあさんに続いて、襷《たすき》をはずしながら挨拶に来る直次の連合《つれあい》のおさだ、直次の娘なぞの後から、小さな甥が四人もおげんのところへ御辞儀に来た。
「どうも太郎や次郎の大きくなったのには、たまげた。三吉もよくお前さん達の噂《うわさ》をしていますよ。あれも大きくなりましたよ」
とおげんは熊吉の子供に言って、それから弟の居るところへ一緒に成った。
しばらく逢《あ》わずにいるうちに直次もめっきり年をとった。おげんは熊吉を見るのも何年振りかと思った。
「姉さんの旦那さんが亡くなったことも、私は旅にいて知りました。」
と熊吉は思出し顔に言ったが、そういう弟は五十五日も船に乗りつづけて遠いところから帰って来た人で、真黒に日に焼けていた。
「ほんとに、小山の姉さんはお若い。もっとわたしはお年寄になっていらっしゃるかと思った」
とそこへ来て言って、いろいろともてなしてくれるのは直次の連合であった。このおさだの言うことはお世辞にしても、おげんには嬉しかった。四人の小さな甥達はめずらしいおばあさんを迎えたという顔付で、かわるがわるそこへ覗《のぞ》きに来た。
おげんが養子の兄は無事に自分の役目を果したという顔付で、おげんの容体などを弟達に話して置いて間もなく直次の家を辞して行った。その晩から、おげんは直次
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