の養母の側に窮屈な思いをして寝ることに成ったが、朝も暗いうちから起きつけた彼女は早くから眼が覚めてしまって、なかなか自分の娘の側に眠るようなわけにはいかなかった。静かに寝床の上で身動きもせずにいるような隣のおばあさんの側で枕もとの煙草盆《たばこぼん》を引きよせて、寝ながら一服吸うさえ彼女には気苦労であった。のみならず、上京して二日|経《た》ち、三日経ちしても、弟達はまだ彼女の相談に乗ってくれなかった。成程《なるほど》、弟達は久しぶりで姉弟《きょうだい》三人一緒になったことを悦んでくれ、姉の好きそうなものを用意しては食膳の上のことまで心配してくれる。しかし、肝心の相談となると首を傾《かし》げてしまって、唯々姉の様子を見ようとばかりしていた。おげんに言わせると、この弟達の煮え切らない態度は姉を侮辱するにも等しかった。彼女は小山の家の方の人達から鋏《はさみ》を隠されたり小刀を隠されたりしたことを切なく思ったばかりでなく、肉親の弟達からさえ用心深い眼で見られることを悲しく思った。何のための上京か。そんなことぐらいは言わなくたって分っている、と彼女は思った。
到頭、おげんは弟達の居るところで、癇癪《かんしゃく》を破裂させてしまった。
「こんなに多勢弟が揃《そろ》っていながら、姉一人を養えないとは――呆痴《たわけ》め」
その時、おげんは部屋の隅《すみ》に立ち上って、震えた。彼女は思わず自分の揚げた両手がある発作的の身振りに変って行くことを感じた。弟達は物も言わずに顔を見合せていた。
「これは少しおかしかったわい」
とおげんは自分に言って見て、熊吉の側に坐り直しながら、眩暈心地《めまいごこち》の通り過ぎるのを待った。金色に光った小さな魚の形が幾つとなく空《くう》なところに見えて、右からも左からも彼女の眼前《めのまえ》に乱れた。
こんなにおげんの激し易くなったことは、酷《ひど》く弟達を驚かしたかわりに、姉としての威厳を示す役にも立った。弟達が彼女のためにいろいろと相談に乗ってくれるように成ったのも、それからであった。彼女はまた何時《いつ》の間にか一時の怒りを忘れて行った。
矢張り弟達は弟達で、自分のために心配していてくれると思うようにも成って行った。
ある日、おげんは熊吉に誘われて直次の家を出た。最早十月らしい東京の町の空がおげんの眼に映った。弟の子供達を悦ばせるような沢山な蜻蛉《とんぼ》が秋の空気の中を飛んでいた。熊吉が姉を連れて行って見せたところは、直次の家から半町ほどしか離れていないある小間物屋の二階座敷で、熊吉は自分用の仮の仕事場に一時そこを借りていた。そこから食事の時や寝る時に直次の家の方へ通うことにしてあった。
「でも秋らしくなりましたね。駒形の家を思出しますね」
と弟は言った。駒形の家とは、おげんの亡くなった伜《せがれ》が娵《よめ》と一緒にしばらく住んだ家で、おげんに取っても思出の深いところであった。
「どうかすると私はまだ船にでも揺られているような気のすることも有りますよ。直さんの家の廊下が船の甲板で、あの廊下から見える空が海の空で、家ごと動いているような気のして来ることも有りますよ」
とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、
「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さんの家でも骨の折れる時ですよ。それは倹約にして暮してもいます。そういうことを想って見なけりゃ成りません。私も東京に自分の家でも見つけましたら、そりゃ姉さんに来て頂いてもようござんす。もう少し気分を落着けるようにして下さい」
「落着けるにも、落着けないにも、俺は別に何処《どこ》も悪くないで」とおげんの方では答えた。「唯、何かこう頭脳《あたま》の中に、一とこ引ッつかえたようなところが有って、そこさえ直れば外にもう何処も身体に悪いところはないで」
「そうですかなあ」
「俺を病人と思うのが、そもそも間違いだぞや」
「なにしろ、あなたのところの養子もあの通りの働き手でしょう。あの養子を助けて、家の手伝いでもして、時には姉さんの好きな花でも植えて、余生を送るという気には成れないものですかなあ」
「熊吉や、それは自分の娘でも満足な身体で、その娘に養子でもした人に言うことだぞや。あの旦那が亡くなってから、俺はもう小山の家に居る気もしなくなったよ。それに、お新のような娘を持って御覧。まあ俺のような親の身になって見てくれよ。お前のとこの細君も、まだ達者でいる時分に、この俺に言ったことが有るぞや。『どんなに自分は子供が多勢あっても、自分の子供を人にくれる気には成らない』ッて。それ見よ、女というものはそういうものだぞ。うん、そこだ――そこだ――それだによって、どんな小さな家でもいいから一軒東京に借りて貰《もら》って、俺はお新と二人で暮した
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