。あれも剥きたいと言いますで。青い夕顔に、真魚板《まないた》に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞなし。干瓢を剥くもいいが、手なぞを切って、危くて眼を放せすか。まあ、あれはそういうものだで、どうかして私ももっとあれの側に居て、自分で面倒を見てやりたいと思うわなし。ほんに、あれがなかったら――どうして、あなた、私も今日までこうして気を張って来られすか――蜂谷さんも御承知なあの小山の家のごたごたの中で、十年の留守居がどうして私のようなものに出来すか――」
思わずおげんは蜂谷を側に置いて、旧馴染《ふるなじみ》にしか出来ないような話をした。何と言ってもお新のような娘を今日まで養い育てて来たことは、おげんが一生の仕事だった。話して見て、おげんは余分にその心持を引出された。
蜂谷は山家の人にしてもめずらしいほど長く延ばした鬚《ひげ》を、自分の懐中《ふところ》に仕舞うようにして、やがておげんの側を離れようとした。ふと、蜂谷は思いついたように、
「小山さん、医者稼業というやつはとかく忙しいばかりでして、思うようにも届きません。昨日から私も若いものを一人入れましたで。ええここの手伝いに。何かまた御用がありましたら、言付けてやって下さい」
こう言って、看護婦なぞの往ったり来たりする庭の向うの方から一人の男を連れて来た。新たに医学校を卒業したばかりかと思われるような若者であった。蜂谷はその初々《ういうい》しく含羞《はにか》んだような若者をおげんの前まで連れて来た。
「小山さん、これが私のところへ手伝に来てくれた人です」
と蜂谷に言われて、おげんは一寸会釈したが、田舎《いなか》医者の代診には過ぎたほど眼付のすずしい若者が彼女の眼に映った。
「好い男だわい」
それを思うと、おげんは大急ぎでその廊下を離れて、馳《か》け込むように自分の部屋に戻った。彼女は堅く堅く障子をしめ切って置いて、部屋に隠れた。
九月も末になる頃にはおげんはずっと気分が好かった。おげんは自分で考えても九分通りまでは好い身体の具合を恢復《かいふく》したと思って、それを蜂谷にも話し、お新や婆やにも話して悦んで貰《もら》うほどであった。そこでいよいよ彼女も東京行を思立った。「小山さん、小山さん」と言って大切にしてくれる蜂谷ほどには、蜂谷の細君の受けも好くなくて、ややもすると機嫌《きげん》を損ね易《やす》いということも、一層おげんの心を東京へと急がせた。この東京行は、おげんに取って久しく見ない弟達を見る楽しみがあり、その弟達に逢《あ》ってこれから将来の方針を相談する楽みがあった。彼女はしばらくお新を手放さねば成らなかった。三月ばかり世話になった婆やにも暇を告げねばならなかった。東京までの見送りとしては、日頃からだの多忙《いそが》しい小山の養子の代りとして養子の兄にあたる人が家の方から来ることに成った。
出発の前夜には、おげんは一日も離れがたく思う娘の側に居て、二人で一緒に時を送った。
「お新や、二人で気楽に話さまいかや。お母さんは横に成るで、お前も勝手に足でもお延ばし」
とおげんは言って、誰に遠慮もない小山の家の奥座敷に親子してよく寛《くつろ》いだ時のように、身体を横にして見、半ば身体を起しかけて見、時には畳の上に起き直って尻餅《しりもち》でも搗《つ》いたようにぐたりと腰を落して見た。そしてその度に、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「わたしは好きな煙草にするわいなし」
とお新は母親の側に居ながら、煙草の道具を引きよせた。女持の細い煙管《きせる》で煙草を吸いつけるお新の手付には、さすがに年齢《とし》の争われないものがあった。
「お新や、お母さんはこれから独りで東京へ行って来るで、お前は家の方でお留守居するだぞや。東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」
とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。
お新は母親のためにも煙草を吸いつけて、細く煙の出る煙管を母親の口に銜《くわ》えさせるほどの親しみを見せた。この表情はおげんを楽ませた。おげんは娘から勧められた煙管の吸口を軽く噛《か》み支えて、さもうまそうにそれを燻《ふか》した。子の愛に溺《おぼ》れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚《よ》び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬《しっと》を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつき
前へ
次へ
全18ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング