思はれんか、の恐れあり。其二は、自らの主義、人間は Passion の動物なれば、少くとも自家の私見、善く言ひて主義なるものに拘泥《こうでい》することなき能はず、故に若し一の私見と他の私見と撞着したる時に、近頃流行の罵詈《ばり》評論に陥ることなきにしもあらず。之を以て余は敢て現存の大家に向つて直接の批評を加へざるべしと雖《いへども》、もし余が観察し行く原質《エレメント》の道程に於て相衝当する事あらば、避くべからざる場合として之を為すことあるべし。
 余は「明治文学管見」の第一として、「快楽《プレジユーア》」と「実用《ユチリチー》」とを論ずべし。
「快楽」と「実用」とは疑もなく「美」の要素なり、必らずしもプレトーを引くには及ばず。
 マシユー・アーノルドは、「人生の批評としての詩に於ては、詩の理、詩の美の定法に応《かな》ふかぎりは、人生を慰め、人生を保つことを得るなり」と云へり。
 文学が一方に於て、人生を批評するものなることは、余も之を疑はず。然れども、アーノルドの言ふ如く、人生の批評としての詩は又た詩の理と詩の美とを兼ねざるべからず。吾人文学を研究するものは、単に人生の批評のみを事と
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