用は客観に於ては物質的人生に渉ると雖、前にも言ひし如く、到底主観に於ては道義的人生にまで達せざるべからざるものなり([#ここから割り注]此事に就きては恐らく詳論を要するなるべし[#ここで割り注終わり])。
余は「快楽」と「実用」との性質に就き、及び此二者が人生と相渉れる関係に就きて、粗略なる解釈を成就したり。是より、
[#ここから3字下げ]
「快楽」と「実用」とが文学に関係するところ如何《いかん》
[#ここで字下げ終わり]
に進むべし。
快楽と実用とは、文学の両翼なり、双輪なり、之なくては鳥飛ぶ能はず、車走る能はず。然れども快楽と実用とは、文学の本躰にあらざるなり。快楽と実用とは美の的[#「的」に傍点](Aim)なり。美の結果[#「結果」に傍点](Effect)なり。美の功用[#「功用」に傍点](Use)なり。「美」の本躰は快楽と実用とにあらず。これと共に、詩の広き範囲に於ても、快楽と実用とは、其的[#「的」に傍点]、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]に過ぎずして、他に詩の本能[#「本能」に傍点]ある事は疑ふ可からざる事実なるべしと思はる。
若し事物の真価を論ずるに、其的[#「的」に傍点]、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]のみを標率とする時は、種々なる誤謬[#「誤謬」に傍点]を生ずるに至るべし、本能[#「本能」に傍点]、本性[#「本性」に傍点]を合せて、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]、其的[#「的」に傍点]、を観察するにあらざれば、余輩其の可なるを知らず。故に文学を評論するには、少くとも其本能本性に立ち入りて、然る後に功用[#「功用」に傍点]、結果[#「結果」に傍点]、目的[#「目的」に傍点]等の陪審官[#「陪審官」に傍点]に諮《と》はざるべからず。
快楽と実用とは詩が兼ね備へざるべからざる二大要素なることは、疑ふまでもなし。然れども詩《ポエトリー》が必らず、この二大要素に対して隷属すべき地位に立たざるべからずとするは、大なる誤謬なり。
吾人が日本文学史を研究するに当りて、第一に観察せざる可からざる事は、如何なる主義《プリンシプル》、如何なる批評眼、如何なる理論《セオリー》が、主要《ヲーソリチー》の位地を占有しつゝありしかにあり。而して吾人は不幸にも、世益主義[#「世益主義」に傍点](世道人
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