心を益せざるべからずといふ論)、勧懲主義[#「勧懲主義」に傍点](善を勧め悪を懲《こ》らすべしといふ論)、及び目的主義[#「目的主義」に傍点](何か目的を置きて之に対して云々すべしといふ論)、等が古来より尤も多く主要[#「主要」に傍点]の位地に立てるを見出すなり。斯の如くにして、神聖なる文学を以て、実用と快楽に隷属[#「隷属」に傍点]せしめつゝありたり。宜《むべ》なるかな、我邦の文運、今日まで憐れむべき位地にありたりしや。
 余は次号に於て、徳川時代の文学に、「快楽」と「実用」との二大|区分《クラシフ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ケーシヨン》ある事。平民文学、貴族文学の区別ある事。倫理と実用との関係。等の事を論じて、追々に明治文学の真相を窺《うかゞ》はん事を期す。(病床にありて筆を執る。字句尤も不熟なり、請ふ諒せよ。)

     二、精神の自由

 造化万物を支配する法則の中に、生と死は必らず動かすべからざる大法なり。凡《およ》そ生あれば必らず死あり。死は必らず、生を躡《お》うて来る。人間は「生」といふ流れに浮びて「死」といふ海に漂着する者にして、其行程も甚だ長からず、然るに人間の一生は「生」より「死」にまで旅するを以て、最後の運命と定むべからざるものあるに似たり。人間の一生は旅なり、然れども「生」といふ駅は「死」といふ駅に隣せるものにして、この小時間の旅によりて万事休する事能はざるなり。生の前は夢なり、生の後も亦た夢なり、吾人は生の前を知る能はず、又た死の後を知る能はず、然れども僅《わづ》かに現在の「生」を覗《うかゞ》ひ知ることを得るなり、現在の「生」は夢にして「生」の後が寤《ご》なるべきや否や、吾人は之をも知る能はず。
 吾人が明らかに知り得る一事あり、其は他ならず、現在の「生」は有限なること是れなり、然れども其の有限なるは人間の精神《スピリツト》にあらず、人間の物質なり。世界は意味なくして成立するものにあらず、必らず何事かの希望を蓄へて進みつゝあるなり、然らざれば凡ての文明も、凡ての化育も、虚偽のものなるべし。世界の希望は人間の希望なり、何をか人間の希望といふ、曰く、個の有限の中にありて彼の無限の目的に応《かな》はせんこと是なり。有限は囲環の内にありて其中心に注ぎ、無限は方以外に自由なり、有限は引力によりて相結び、無限は自在を以て孤立することを得るなり
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