A我が平民社界に起りしシバルリイは、其ゼントルマンシップに於て既に女性を遊戯的|玩弄物《ぐわんろうぶつ》になし了りたれば、恋愛なるもの甚だ価直《かち》なく、女性のレデイシップをゼントルマンシップの裡面に涵養するかはりに、却《かへ》つて女性をして男性の為すところを学ばしめて、一種の女侠なるものを重んずるに至れり、この点に於て我がシバルリイは、彼のシバルリイの如く重味あること能はず、我が紳士風は、彼の紳士風の如く優美の気韻を禀《う》くること能はず、女性の天真を殺して、自らの天真をも自損せり。彼のシバルリイは「我《エゴー》」を重んじて、軽々しく死し軽々しく生きず、我がシバルリイは生命を先づ献じて、然る後にシバルリイを成さんとするものゝ如かりし、己れの品性は磨《みが》くこと多からずして、他の儀式礼法多き武門に対敵して、反動的に放縦素朴に走りたり。宗教及び道徳は彼のシバルリイに欠くべからざる要素なりしに、我が平民のシバルリイは寧ろ当時の道徳組織を斥《しり》ぞけ、宗教には縁《ちなみ》薄きものにてありし。要するにチヨーサーのシバルリイ(即ち英国の)は我がシバルリイの如く暗憺たる時代に産《うま》れたるにあらず、我がシバルリイのごとく圧抑の反動として、兇暴に対する非常的手腕として発したるものにはあらで、燦然《さんぜん》たる光輝を放ち、英国今日の気風、英国今日の紳士紳女を彼の如くになしたるも、実にこのシバルリイの余光にてありしことを知るべし。
 侠といふ文字、英語にては甚だ訳し難かるべし、訳し難き程に我が歴史上の侠は、欧洲諸国のシバルリイとは異なれるところあるなり。※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1−14−30]《も》し強《し》ひてシバルリイを我が平民界の理想に応用せんとせば、侠と粋(侠客の恋愛に限りて)とを合せ含ましめざる可からず、侠客の妻《さい》を取りて研究せば、得るところあらむ。
 我が平民界の侠客をうつして文章に録せしもの、甚だ多し、われは一々之を参照する能はず、こゝに馬琴が其「侠客伝」に序して曰ひし数句を挙げて、其意見を窺《うかゞ》ひ見む。曰く、近世有[#乙]大鳥居逸平、関東小六、幡随長兵、及号[#二]茨城草袴、白柄大小神祇[#一]者[#甲]、皆是閭巷侠、而其所[#レ]為、或未[#三]必合[#二]於義[#一]、啻立[#レ]気斉作[#二]威福[#一]、結[#二]私交[#
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