が為ならず
 唯《た》だ足に任せて来りしなり
  もれ入る月のひかり
  ても其姿の懐かしき!

   第八
想ひは奔《はし》る、往《ゆ》きし昔は日々に新なり
彼《かの》山、彼水、彼庭、彼花に余が心は残れり、
彼の花! 余と余が母と余が花嫁と
もろともに植ゑにし花にも別れてけり、
思へば、余は暇《いとま》を告ぐる隙《ひま》もなかりしなり。
誰れに気兼《きがね》するにもあらねど、ひそひそ
 余は獄窓《ごくそう》の元に身を寄せてぞ
何にもあれ世界の音信《おとずれ》のあれかしと
 待つに甲斐あり! 是は何物ぞ?
送り来れるゆかしき菊の香《かおり》!
 余は思はずも鼻を聳《そび》えたり、
こは我家《わがや》の庭の菊の我を忘れで、
 遠く西の国まで余を見舞ふなり、
   あゝ我を思ふ友!
   恨むらくはこの香《かおり》
   我手には触れぬなり。

   第九
またひとあさ余は晩《おそ》く醒《さ》め、
 高く壁を伝ひてはひ登る日の光《め》
余は吾花嫁の方に先づ眼を送れば、
 こは如何に! 影もなき吾が花嫁!
思ふに彼は他《ほか》の獄舎《ひとや》に送られけん、
 余が睡眠《ねむり》の中に移されたりけん、
とはあはれな! 一目なりと一せきなりと、
 (何ぜ、言葉を交《か》はす事は許されざれば)
永別《わかれ》の印《しるし》をかはす事もかなはざりけん!
三個《みたり》の壮士もみな影を留《と》めぬなり、
 ひとり此広間に余を残したり、
朝寝の中に見たる夢の偽《いつわり》なりき、
 噫《ああ》偽りの夢! 皆な往《ゆ》けり!
   往けり、我愛も!
   また同盟の真友も!

   第十
倦《う》み来りて、記憶も歳月も皆な去りぬ、
 寒くなり暖《あつ》くなり、春、秋、と過ぎぬ、
暗さ物憂さにも余は感情を失ひて
 今は唯だ膝を組む事のみ知りぬ、
罪も望も、世界も星辰《せいしん》も皆尽《つ》きて、
余にはあらゆる者皆《みな》、……無《む》に帰して
たゞ寂寥、……微《かす》かなる呼吸――
 生死の闇の響《ひびき》なる、
甘き愛の花嫁も、身を抛《なげう》ちし国事も
忘れはて、もう夢とも又た現とも!
嗚呼数歩を運べずすなはち壁、
三回《みたび》まはれば疲る、流石《さすが》に余が足も!

   第十一
余には日と夜との区別なし、
左れど余の倦《うみ》たる耳にも聞きし、
暁《あけ》の鶏や、また塒《ね
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