らん!
斯く云ふ我が魂も獄中にはあらずして
 日々夜々《ひびやや》軽るく獄窓《ごくそう》を逃《にげ》伸びつ
余が愛する処女の魂も跡を追ひ
 諸共《もろとも》に、昔の花園《はなぞの》に舞ひ行きつ
塵《ちり》なく汚《けがれ》なき地の上には[#「は」に〔ママ〕と傍書]ふバイヲレット
其名もゆかしきフォゲットミイナット
 其他種々《いろいろ》の花を優しく摘みつ
ひとふさは我《わが》胸にさしかざし
 他のひとふさは我が愛に与へつ
ホツ! 是《こ》は夢なる!
見よ! 我花嫁は此方《こなた》を向くよ!
其の痛ましき姿!
   嗚呼爰《ここ》は獄舎
   此世の地獄なる。

   第六
世界の太陽と獄舎《ひとや》の太陽とは物異《かわ》れり
 此中には日と夜との差別の薄かりき、
何《な》ぜ……余は昼眠《ね》る事を慣《なれ》として
 夜の静《しずか》なる時を覚め居《い》たりき、
ひと夜《よ》。余は暫時《しばし》の坐睡《ざすい》を貪《むさぼ》りて
 起き上り、厭《いと》はしき眼を強ひて開き
見廻せば暗さは常の如く暗けれど、
 なほさし入るおぼろの光……是れは月!
月と認《み》れば余が胸に絶えぬ思ひの種《たね》、
 借《かり》に問ふ、今日《きよう》の月は昨日《きのう》の月なりや?
  然り! 踏めども消せども消えぬ明光《ひかり》の月、
嗚呼少《わか》かりし時、曽《か》つて富嶽《ふがく》に攀上《よじのぼ》り、
 近かく、其頂上《いただき》に相見たる美くしの月
美の女王! 曽つて又た隅田《すみだ》に舸《ふね》を投げ、
花の懐《ふところ》にも汝《なんじ》とは契《ちぎり》をこめたりき。
  同じ月ならん! 左《さ》れど余には見えず、
  同じ光ならん! 左れど余には来らず、
   呼べど招けど、もう
   汝は吾が友ならず。

   第七
 牢番は疲れて快《よ》く眠り、
 腰なる秋水のいと重し、
 意中の人は知らず余の醒《さめ》たるを……
 眠の極楽……尚ほ彼はいと快《こころよ》し
 嗚呼二枚の毛氈《もうせん》の寝床《とこ》にも
 此の神女の眠りはいと安し!
 余は幾度も軽るく足を踏み、
 愛人の眠りを攪《さま》さんとせし、
 左《さ》れど眠の中に憂《うさ》のなきものを、
 覚《さま》させて、其《そ》を再び招かせじ、
 眼を鉄窓の方に回《か》へし
 余は来《く》るともなく窓下に来れり
 逃路を得ん
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