の中と見て下さらねば困ります。

[#ここに挿し絵入る]

   第十三
恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
 若き昔時《むかし》……其の楽しき故郷《ふるさと》!
暗《く》らき中にも、回想の眼はいと明《あか》るく、
 画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を戴《いただ》きし冬の山、霞をこめし渓《たに》の水、
 よも変らじ其美くしさは、昨日《きのう》と今日《きよう》、
 ――我身独りの行末が……如何に
   浮世と共に変り果てんとも!
嗚呼蒼天《そうてん》! なほ其処に鷲は舞ふや?
嗚呼深淵! なほ其処に魚は躍るや?
  春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存《あ》るや?
曽《か》つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴《き》きし渓《たに》の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
  有る――無し――の答は無用なり、
  常に余が想像には現然たり、
   羽あらば帰りたし、も一度
   貧しく平和なる昔のいほり。

   第十四
冬は厳《きび》しく余を悩殺す、
壁を穿《うが》つ日光も暖を送らず、
日は短し! して夜はいと長し!
寒さ瞼《まぶた》を凍らせて眠りも成らず。
然れども、いつかは春の帰り来らんに、
好し、顧みる物はなしとも、破運の余に、
たゞ何心なく春は待ちわぶる思ひする、
余は獄舎《ひとや》の中より春を招きたり、高き天《そら》に。
遂に余は春の来るを告《つげ》られたり、
鶯《うぐいす》に! 鉄窓の外に鳴く鶯に!
知らず、そこに如何なる樹があるや?
梅か? 梅ならば、香《かおり》の風に送らる可《べ》きに。
 美くしい声! やよ鶯よ!
余は飛び起きて、
 僅に鉄窓に攀《よ》ぢ上るに――
鶯は此響《ひびき》には驚ろかで、
 獄舎の軒にとまれり、いと静に!
余は再び疑ひそめたり……此鳥こそは
 真《まこと》に、愛する妻の化身ならんに。
鶯は余が幽霊の姿を振り向きて
 飛び去らんとはなさずして
再び歌ひ出でたる声のすゞしさ!
 余が幾年月の鬱《うさ》を払ひて。
卿《おんみ》の美くしき衣は神の恵みなる、
卿の美くしき調子も神の恵みなる、
卿がこの獄舎《ひとや》に足を留《と》めるのも
また神の……是《こ》は余に与ふる恵《めぐみ》なる、
 然り! 神は鶯を送りて、
余が不幸を慰むる厚き心なる!
 嗚呼夢に似てなほ夢ならぬ、
余が身にも…
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