真理を認むるの確なるを謝するに吝《やぶさか》ならざらんと欲す、然れども吉野山を以て活用論者の手に委ぬるは、福沢先生を同志社の総理に推すことを好まざると同じく好まざるなり。
 肉の力は肉の力を撃つに足るべし、死したるものゝ死したるものを葬むるを得るといふ真理は、ナザレの人の子も之れを説けり。然れども死したるものゝ葬むることを得ざるものあるは、肉の力の撃砕することを得ざるものあると共に、他の一側に横はれる真理なり。一人の敵を学ぶの非なるは、万人の敵を学びても猶《な》ほ失敗したる項羽すら、之を発見せり。万人の敵を学ぶは百万人の敵を学ぶに如かざればならむ。百万人の敵を学びたる(仮定して)漢王も、亦た「死朽」といふ不可算の敵の前には、無言にして仆《たふ》れたり。「死朽」といふ敵に対して、吾人は吾人の刀剣を揮《ふる》ふこと、愛山生の所謂英雄剣を揮ふ如くするも、成敗の数は始めより定まりてある如く、吾人は自然(力としての)の前に立ちて脆弱《ぜいじやく》なる勇士にてあるなり。
「力《フオース》」としての自然は、眼に見えざる、他の言葉にて言へば空の空なる銃鎗を以て、時々刻々「肉」としての人間に迫り来るなり
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