《あは》れむべき自足なり。この憫れむべき自足[#「自足」に白丸傍点]を以て現象世界に処して、快楽と幸福とに欠然たるところなしと自信するものは、浅薄なる楽天家なり。彼は狭少なる家屋の中に物質的論客と共に坐を同くして、泰平を歌はんとす。歌へ、汝が泰平の歌を。
 然れども斯の如き狭屋の中には、味もなき「義務」双翼を張りて、極めて得意になるなり。剛健なる「意志」其の脚を失ひて、幽霊に化するなり。訳もなき「利他主義」は荘厳なる黄金仏となりて、礼拝せらるゝなり。「事業」といふ匠工《たくみ》は唯一の甚五郎になるなり、「快楽」といふ食卓は最良の哲学者になるなり。ペダントリーといふ巨人は、屋根裡《やねうら》に突き上るほどの英雄になるなり。凡《すべ》ての霊性的生命は此処を辞して去るべし。人間を悉く木石の偶像とならしむるに屈竟《くつきやう》の社殿は、この狭屋なるべし。この狭屋の内には、菅公は失敗せる経世家、桃青は意気地なき遁世家、馬琴は些々《さゝ》たる非写実文人、西行は無慾の閑人となりて、白石の如き、山陽の如き、足利尊氏の如き、仰向すべきは是等の事業家の外なきに至らんこと必せり。
 頭をもたげよ、而して視よ
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