しも活用と趣を一にせず、吾人をして空虚なる英雄を気取りて、力としての自然の前に、大言壮語せしむるものは我が言ふ活路にあらず、吾人は吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つて縦《ほしいまゝ》に握らしむる事を得るなり。自然は暴虐を専一とする兵馬の英雄の如きにあらず、一方に於て風雨雷電を駆つて吾人を困《くる》しましむると同時に、他方に於ては、美妙なる絶対的のものをあらはして吾人を楽しましむるなり。風に対しては戸を造り、雨に対しては屋根を葺《ふ》き、雷に対しては避雷柱を造る、斯《か》くして人間は出来得る丈は物質的の権《ちから》を以て自然の力に当るべしと雖、かくするは限ある権をもて限なき力を撃つの業にして、到底限ある権を投げやりて、自然といふものゝ懐裡に躍り入るの妙なるには如かざるなり。爰に於て吉野山は、活用論者の睹易《みやす》からざる活機を吾人に教ふるなり。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌ひたる詩人が、活用論者の知ること能はざる大活機を看破したるは、即ち爰にあるなり。
 宗教なし、サブライムなしと嘲けられたる芭蕉は、振り向きて嘲りたる者
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