て、行先《ゆくさき》人の妻となりてたちぬひの業に家を修むる吉瑞《きちずゐ》ありと打ち笑ひぬ。時も移りて我は老婆と少娘との紙帳《しちやう》に入りて一宵《いつせう》を過ごしぬ。この夜は七年の刺《とげ》多き浮世の旅路を忘却し、安らかなる眠りに入りて楽しかりけり。
 明くれば早暁《さうげう》、老鶯の声を尋ねて欝叢たる藪林《そうりん》に分け入り、旧日の「我《われ》」に帰りて夢幻境中の詩人となり、既往と将来とを思ひめぐらして、神気甚だ爽快なり。老婆は後庭《こうてい》に植ゑたる百合数株、惜気もなく堀りとりて我が朝餉《あさげ》の膳に供し、その花をば古びたる花瓶に活《い》けて、我が前に置据ゑぬ。人を市《いち》に遣りて老畸人に我が来遊を告げしめ、われに許して彼が秘蔵の文庫に入りて、其終生の秘書なる義太夫本を雑抽《ざふちう》せしめたり。午《ひる》になれど老人未だ帰らず、我は人を待つ身のつらさを好まねば、少娘と其が兄なる少年とを携へて、網代《あじろ》と呼べる仙境に蹈入れり。網代は山間の一温泉塲なり、むかし蒼海と手を携へて爰《こゝ》に遊びし事あり、巌に滴《したゝ》る涓水《けんすゐ》に鉱気ありければ、これを浴室に
前へ 次へ
全19ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング