かけ声すさまじく、月のなき桑野原、七年の夢を現《うつゝ》にくりかへして、幻境に着きたる頃は夜も既に十時と聞きて驚ろきたり。この幻境の名は川口村|字《あざ》森下《もりした》、訪ふ人あらば俳号|龍子《りゆうし》と尋ねて、我が老畸人を音づれよかし。
龍子は当年六十五歳、元と豪族に生れしが少《わか》うして各地に飄遊し、好むところに従ひて義太夫語りとなり、江都《えど》に数多き太夫の中《うち》にも寄席に出でゝは常に二枚目を語りしとぞ。然《さ》れども彼は元来|一個《ひとり》の侠骨男子、芸人の卑下なる根性を有《も》たぬが自慢なれば、あたらしき才芸を自ら埋没して、中年家に帰り父祖の産を継ぎたりしかど、生得の奇骨は鋤犂《じより》に用ゆべきにあらず、再三再四家を出でゝ豪侠を以て自から任じ、業は学ばずして頭領株の一人となり、墨つぼ取つては其道の達人を驚かしめ、風流の遊塲《あそびば》に立ちては幾多の佳人を悩殺して今に懺悔《ざんげ》の種を残し、或時は剣《つるぎ》を挺して武人の暴横に当り、危道を蹈み死地に陥りしこと数を知らず。然《さ》れども我が知りてよりの彼は、沈静なる硬漢、風流なる田人、園芸をわきまへ、俳道に明
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