友を失ひしによりて大に増進し、この後幾多の苦獄を経歴したるは又た是非もなし。
狂ひに狂ひし頑癖も稍《やゝ》静まりて、茲年《ことし》人間生活の五合目の中阪にたゆたひつゝ、そゞろに旧事を追想し、帰心矢の如しと言ひたげなるこの幻境に再遊の心は、この春松島に遊びし時より衷裡《ちゆうり》を離れず。幸にして大坂の事ありてより消息絶えて久しき蒼海も、獄を出でゝ近里に棲《す》めば、書を飛ばして三個《みたり》同遊せんことを慫《すゝ》むるに、来月まで待つべしとの来書なり。我は一日を千秋と数へて今日まで待ちつるものを、今更に閑暇を得ながら行くべきところに行かぬは、あさはかな心の虫の焦《いら》つを抑へかねて、一書を急飛し、飄然《へうぜん》家を出でゝ彼幻境《かのげんきやう》に向ひたるは去月二十七日。
この境《きやう》、都を距《へだつ》ること遠からず、むかし行きたる時には幾度《いくたび》か鞋《わらぢ》の紐をゆひほどきしけるが、今は汽笛一声新宿を発して、名にしおふ玉川の砧《きぬた》の音も耳には入らで、旅人の行きなやむてふ小仏の峰に近きところより右に折れて、数里の山径《やまみち》もむかしにあらで腕車《わんしや》の
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