て、行先《ゆくさき》人の妻となりてたちぬひの業に家を修むる吉瑞《きちずゐ》ありと打ち笑ひぬ。時も移りて我は老婆と少娘との紙帳《しちやう》に入りて一宵《いつせう》を過ごしぬ。この夜は七年の刺《とげ》多き浮世の旅路を忘却し、安らかなる眠りに入りて楽しかりけり。
明くれば早暁《さうげう》、老鶯の声を尋ねて欝叢たる藪林《そうりん》に分け入り、旧日の「我《われ》」に帰りて夢幻境中の詩人となり、既往と将来とを思ひめぐらして、神気甚だ爽快なり。老婆は後庭《こうてい》に植ゑたる百合数株、惜気もなく堀りとりて我が朝餉《あさげ》の膳に供し、その花をば古びたる花瓶に活《い》けて、我が前に置据ゑぬ。人を市《いち》に遣りて老畸人に我が来遊を告げしめ、われに許して彼が秘蔵の文庫に入りて、其終生の秘書なる義太夫本を雑抽《ざふちう》せしめたり。午《ひる》になれど老人未だ帰らず、我は人を待つ身のつらさを好まねば、少娘と其が兄なる少年とを携へて、網代《あじろ》と呼べる仙境に蹈入れり。網代は山間の一温泉塲なり、むかし蒼海と手を携へて爰《こゝ》に遊びし事あり、巌に滴《したゝ》る涓水《けんすゐ》に鉱気ありければ、これを浴室にうつし、薪火《しんくわ》をもて暖めつゝ、近郷近里の老若男女、春冬の閑時候に来り遊ぶの便に供せり。一条《ひとすぢ》の山径《やまみち》草深くして、昨夕《ゆうべ》の露なほ葉上《はのうへ》にのこり、※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《かゝ》ぐる裳《もすそ》も湿《ぬ》れがちに、峡々《はざま/\》を越えて行けば、昔遊《むかしあそび》の跡歴々として尋ぬべし。老鶯に送迎せられ、渓水に耳奪はれ、やがて砧の音と欺かれて、とある一軒《ひとむね》の後ろに出づれば、仙界の老田爺が棒打とか呼べることをなすにてありけり。こゝは網代の村端《むらはづれ》にて、これより渓澗《けいかん》に沿ひ山一つ登れば、昔し遊びし浴亭、森粛《しんしゆく》たる叢竹の間にあらはれぬ。この行甚だ楽しからず、蒼海約して未だ来らず、老侠客の面《かほ》未だ見《みえ》ず、加《くはふ》るに魚なく肉なく、徒らに浴室内に老女の喧囂《けんがう》を聞くのみ。肱《ひぢ》を曲げて一睡を貪《むさ》ぼると思ふ間《ま》に、夕陽|已《すで》に西山《せいざん》に傾むきたれば、晩蝉《ばんせん》の声に別れてこの桃源を出で、元の山路に拠《よ》らで他の草径《くさみち》をたどり、我幻境にかへりけり、この時弦月漸く明らかに、妙想胸に躍り、歩々天外に入るかと覚えたり。
楼上には我を待つ畸人あり、楼下には晩餐《ばんさん》の用意にいそがしき老母あり、弦月は我幻境を照らして朦朧《もうろう》たる好風景、得《え》も言はれず。階を登れば老侠客|莞爾《くわんじ》として我を迎へ、相見て未だ一語を交《か》はさゞるに、満堂一種の清気|盈《み》てり。相見ざる事七年、相見る時に驟《には》かに口を開き難し、斯般《このはん》の趣味、人に語り易からず。始めは問答多からず、相対して相笑ふのみなりしが、漸く談じ漸く語りて、我は別後の苦戦を説き起しぬ。
この過去の七年、我が為には一種の牢獄にてありしなり。我は友を持つこと多からざりしに、その友は国事の罪をもつて我を離れ、我も亦た孤※[#「煢−冖」、第4水準2−79−80]《こけい》為すところを失ひて、浮世の迷巷に蹈み迷ひけり。大俗の大雅に双《くら》ぶべきや否やは知らねど、我は憤慨のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもつて一生を送らんと思ひ定めたりし事あり、一転して再び大雅を修めんとしたる時に、産破れ、家|廃《すた》れて、我が痩腕をもて活計の道に奔走するの止むを得ざるに至りし事もあり。わが頑骨を愛して我が犠牲となりし者の為に、半知己の友人を過《あやま》ちたりし事もあり。修道の一念甚だ危ふく、あはや餓鬼道に迷ひ入らんとせし事もあり、天地の間に生れたるこの身を訝《いぶ》かりて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭《しんとう》を洩れて、この老知己に対する懺悔となり、刻《とき》のうつるも知らで語りき。
しばらくありて老婆は酒を暖め来りて、飲まずと言ふ我に一杯を強ひ、これより談話一転して我幻境の往事《わうじ》に入れり。淡泊洗ふが如き孤剣の快男児(蒼海)この席の談笑を共にせざるこそ終生の恨なり。少婦《せうふ》も出で来り、当時の主人なる無口男も席に進みて、或は旧時の田花の今は已に寡婦になりしを語り、或は近家の興廃浮沈に説き及び、或は我が棲《す》むところを問ひなどしつ、この夜の興味は抹《まつ》すべからざる我生涯の幻夢なるべし。就中《なかんづく》、老母は我が元来の虚弱にて学道《まなびのみち》に底なき湖《うみ》を渡るを危ぶみて、涙を浮べて我が健全を祈るなど、都に多き知己にも増して我が上を思ふの真情、
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