三日幻境
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遑《いとま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)過夢|算《かぞ》ふるに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1−89−60]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)せい/\
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     (上)

 人生何すれぞ常に忙促たる、半生の過夢|算《かぞ》ふるに遑《いとま》なし。悲しいかな、我も亦た浮萍を追ひ迷雲を尋ねて、この夕|徒《いたづ》らに往事を追懐するの身となれり。
 常に惟《おも》ふ、志を行はんとするものは必らずしも終生を労役するに及ばず。詩壇の正直男(ゴールドスミス)この情《こゝろ》を賦して言へることあり。
[#ここから2字下げ]
I still had hopes, my long vexation past,
Hero to return――and die at home at last.
[#ここで字下げ終わり]
 浮世に背き微志を蓄へてより、世路|酷《はなは》だ峭嶢《せうげう》、烈々たる炎暑、凄々《せい/\》たる冬日、いつはつべしとも知らぬ旅路の空をうち眺めて、屡《しば/\》、正直男と共に故郷なつかしく袖を涙にひぢしことあり。
 われは函嶺《かんれい》の東、山水の威霊少なからぬところに産《うま》れたれば、我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇《ためら》はねども、往時の産業は破れ、知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く疇昔《そのかみ》を語るべき古老の存するなし。山水もはた昔時に異なりて、豪族の擅横《せんわう》をつらにくしとも思《おもは》ずうなじを垂るゝは、流石《さすが》に名山大川の威霊も半《なかば》死せしやと覚《おぼえ》て面白からず。「追懐《レコレクシヨン》」のみは其地を我故郷とうなづけど、「希望《ホープ》」は我に他《ほか》の故郷を強ゆる如し。
 回顧すれば七歳のむかし、我が早稲田にありし頃、我を迷はせし一幻境ありけり。軽々しくも夙少《わか》くして政海の知己を得つ、交りを当年の健児に結びて、欝勃《うつぼつ》沈憂のあまり月を弄《ろう》し、花を折り、遂には書を抛《な》げ筆を投じて、一二の同盟と共に世塵を避けて、一切物外の人とならんと企てき。今にして思へば政海の波浪は自《おのづ》から高く自から卑《ひく》く、虚名を貪り俗情に蹤《お》はるゝの人には棹《さを》を役《つか》ひ、橈《かい》を用ゆるのおもしろみあるべきも、わが如く一片の頑骨に動止を制し能はざるものゝ漂ふべきところならず。然《さ》れども我は実にこの波浪に漂蕩《へうたう》して、悲憤慷慨の壮士と共に我が血涙を絞りたりしなり。醜悪なる社界を罵蹴して一蹶《いつけつ》青山に入り、怪しげなる草廬《さうろ》を結びて、空しく俗骨をして畸人の名に敬して心には遠《とほざ》けしめたるなり。この時に我が為めにこの幻境を備へ、わが為にこの幻境の同住をなせしものは、相州の一孤客大矢蒼海なり。
 はじめてこの幻境に入りし時、蒼海は一田家に寄寓せり、再び往きし時に、彼は一畸人の家に寓せり、我を駐《とゞ》めて共に居らしめ、我を酔はしむるに濁酒あり、我を歌はしむるに破琴《やぶれごと》あり、縦《ほしいまゝ》に我を泣かしめ、縦に我を笑はしめ、我《わが》素性《そせい》を枉《ま》げしめず、我をして我疎狂を知るは独り彼のみ、との歎を発せしめぬ。おもむろに庭樹を瞰《なが》めて奇句を吐かんとするものは此家の老畸人、剣を撫《なで》し時事を慨《うれ》ふるものは蒼海、天を仰ぎ流星を数ふるものは我れ、この三箇《みたり》一室に同臥同起して、玉兎《ぎよくと》幾度《いくたび》か罅《か》け、幾度か満ちし。
 三たび我が行きし時に、蒼海は幾多の少年壮士を率ゐて朝鮮の挙に与《あづか》らんとし、老畸人も亦た各国の点取《てんしゆ》に雷名を轟かしたる秀逸の吟咏を廃して、自村の興廃に関るべき大事に眉をひそむるを見たり。この時に至りて我は既に政界の醜状を悪《に》くむの念漸く専らにして、利剣を把《と》つて義友と事を共にするの志よりも、静かに白雲を趁《お》ふて千峰万峰を攀《よ》づるの談興に耽《ふけ》るの思望|大《おほい》なりければ、義友を失ふの悲しみは胸に余りしかども、私《ひそ》かに我が去就を紛々たる政界の外《ほか》に置かんとは定めぬ。この第三回の行《かう》、われは髪を剃り※[#「竹かんむり/(工+卩)」、第3水準1−89−60]《つゑ》を曳きて古人の跡を蹈み、自《みづ》から意向を定めてありしかば義友も遂に我に迫らず、遂に大坂の義獄に与《あづか》らざりしも、我が懐疑の所見朋
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