技倆を示めすべき為に備へられたる舞蹈の機会あり。其の劇の演ずるところ悲劇にもあれ、喜劇にもあれ、斯かる機会に到着する時には、演者も観客も劇の本色を忘れて、宛然たる活動的絵画の中に没入して、人[#「人」に傍点]もなく、事[#「事」に傍点]もなく、暫らく之に幻惑せられざるを得ざるが常なり。
 余は舞蹈に就いて多く知るものにあらず。然れども我劇にて行はるゝ舞蹈は、断じて劇的のものにあらずと言ふを憚《はゞか》らず。之を美術の他の部門に分つ上は一種の特技なるべし。劇の中に存して劇と与《とも》に、進歩せしむるは到底、望むべき事にはあらず。真の性質よりするも、美術としての舞蹈は、寧ろ喜劇に限りて或度に於て有用とするを得べきも、悲劇には破壊こそすれ、一の用をなすべきを認めず。悲劇は総じて荘重なる調子を要する者なり、因と果との照応、尤も緊切なるを要する者なり、冗漫なる舞蹈は悲劇に対する風情を損することあるも、之を増すことはあらじ。劇詩の前途に於て悲劇と喜劇と分明に相別るゝ事あらば、舞蹈は一の問題となるべし。家流の舞蹈は概《おほむ》ね所作《しよさ》にて之を見る者なれば、爰に言はず、所謂足取[#「足取」に傍点]、手振[#「手振」に傍点]、其一部の形式に到りては、遂に我劇界の一疑問とならずんばあらず。
 桜癡居士其他の新作にはチヨボを交ゆる事少なし、之を以て舞蹈を要する事も多からず。然れども旧作物に至りては全篇悉く、演技者の動作を控束する為に作られしかの観あり。聞く所によれば演者自らも新作を喜びて、旧作の余りに固くるしきを厭《いと》ふと云へり。新らしく生るべき劇塲は、遂にチヨボを如何せまし。之を存すべきか、存せば如何なる度に於て存せん、之を廃するとせば全然、我邦の劇に固有の特宜なる整合の精神を打破せざるべからず。将来の劇詩家の考慮すべき問題の一として、之も亦た多少の議論あるべき事なり。
 我が劇の鳴物(音楽、柝木、鐘、その他を含みて)、複雑を極めたるも亦一種の特質なり。此は我邦楽器の性質に照らして自から生じたる結果なるべきか。我劇の楽器は無論、三味《しやみ》を以て中心とすなり、然るに三味は繊弱にして、音響の以て凡《すべ》ての塲合に通合せしむるに足らず、之に因りて勢ひ他の諸種の楽器を合せ用ひざるを得ず、爰に於て劇内の楽器に於て既に整合を要するあり、吾人は整合を悪しとするにあらず、唯だ劇中の人
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