触《まへぶれ》によりて之を見れば、従来の劇塲内部に於ける制度に甘従したる作なること、大方預察するに苦しからず。劇内の制度旧式が新に生れんとする劇詩に大なる障碍《しやうがい》をなしつゝありし事は、今更之を言ふに及ばず。美妙氏は竟《つひ》に彼の制度と調和する事を得んと思はるゝにや、或は一時止むことなければとにや。作の出づるを待ちて、更に卑見を陳《の》ぶることもあらん。
 美妙氏の作に就きてにはあらねど、余は聊《いさゝ》か、劇詩の前途の為に究《きは》めたき事あり。
 我邦の劇に固有なるは其|整合的調和《シンメトリカル・ハーモニー》にあり。調和は劇の全部を通じて存せり。其音楽も、鳴物も、白も、介も、科も、或は舞蹈、或はチヨボ、其他百般の事、皆な此の調和を以て中心とせざるなし。歌あれば爰に舞足あり、手振あり、それに連れて種々に、態々の面倒なる注文あり。一の部分は全躰たるを容《ゆる》さず、全躰は一部分によりて表現せらるゝを得ず。斯くの如く我邦の劇は、整合の奴隷なり、整合を取り去りては一の美をも、存するなしと言ふも不可なきなり。芝翫は能舞者なり、然れども其の能舞者たるは、其の能整合者たるに存するのみ。団洲の目玉は有名なり、然れども彼の目玉も亦た一種の整合術に過ぎざるなり。柝木《ひやうしぎ》の響と彼の目玉と相聯関して三階の喝采を博する時、吾人は何等の妙味をも感ぜざるなり。
 我邦の台詞《せりふ》に一種の特質あるは、疑ふべからざるところなり。而して其由来する所は、浄瑠璃《じやうるり》の朗誦法に帰すべく、且《かつ》は又た我邦言語の母韻に終る事情にも帰すべしと雖、職《しよく》として整合の、余りに厳格なるに因せずとせんや。緩漫《くわんまん》にして長たらしきのみならば責むるにも及ぶまじきが、抑揚の余りに規則立ちたる、短急の其の自然を失ひたるなど、抑《そもそ》も整合を以て唯一の中心とする我劇の弊とせずして何ぞや。
 蓋《けだ》し我劇の舞蹈ほど、劇としての美術をなせるはあらざるべし。吾人は他邦の劇に通ずる者にあらず、然れども吾人の臆測する所を以てすれば、我邦の劇的舞蹈は世界に其比を見ざるところならんか。而して其の由つて来る所を察すれば、我劇の整合を尊ぶの精神に伴へるものなることを知るに難からず。啻《たゞ》に舞蹈としての舞蹈、即ち各家々流の舞蹈に止まらず、一の白と共に一の半舞蹈あり、又た特に演者の
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