物をして整合の奴隷とならしむるを非とするに過ぎざるのみ。整合多種多様のものに求むるは、不整合の原因なり。鳴物としての鳴物、即ち一塲の始め終り、若《もし》くは押韻的要句[#「押韻的要句」に傍点]等に際してのみ之を用ふる鳴物ならば、如何に複雑なりとも此は論外なれば妨げなし、唯だ舞台にありて活動する演者の技[#「技」に傍点]の上に大なる操縦の力を捉れるが如き今の鳴物の有様は、之を整合の弊と言はざるを得ざるなり。
楽[#「楽」に傍点]と動《アクシヨン》とは、到底整合を求むべきものにあらず。強《し》いて之を求むれば、劇を変じて舞蹈となすべきのみ。我劇は往々にして、此弊に陥れり。楽《がく》と動とを整合せしむるが為に、演者の自然的動作を損傷して、緩急を楽《がく》に待つの余義なきを致さしむ。楽の多様は是非なし、ピアノを用ふることも風琴を用ふることも、我劇の古色を傷《きずつ》くる限りは出来ぬ相談なるが故に、我邦の楽にて推し通すは可也、然れども願くは、楽と動との関係を最少《もすこ》し緩《ゆ》るくして、演者の活溌なる動作を見ることを得たきものなり。
吾人は我劇の塲景《シインリー》にも同じ弊を見る。欧洲近世の傾向は吾人の知り得る所にあらず、然れども沙翁劇と称する一派及之と同性質の古劇の外は、漸く写実的精巧の極点にまで進まんとしつゝある由は、微《ほのか》に聞得たる事実なり。塲景を以て俗客の視覚を幻惑するは、射利を旨とする劇塲の常なれば、深く咎《とが》むべきにあらず。頃者《このごろ》、我劇(別して菊五郎一派)が新らしき趣向を凝《こ》らして客を引かんことに切なるは、元より其の当なり。然れども暫らく塲景の精不精とを外にして、その塲景と演者との関係を察する時、吾人は屡《しばし》ば我が塲景の、余りに演者の動作に対する不自由を与ふるを認むるなり。人物を活動せしむるにあらず、事件を顕著ならしむるが我劇の精神なるが故に、舞台の精巧《プレサイスネツス》は適《たまた》ま以て劇中の人物の生活の実態を描き出るには好けれど、其の幻惑力は自《おのづ》から観者の心魂を奪ひて摸型的美術の中に入らしめ、且は又た演者自らをして、余りに多く写実的動作に気を配らしむるの結果、遂に作者の筆を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]束するの禍を生ずるに至るべし。作者之が為に踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ち
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