継《まゝ》しき中にもあらぬ母の身にてありながら、鬼にもあらぬ鬼心《おにごゝろ》をそしらぬものもなかりけり。
 東禅寺寺内より高輪の町に出でんとする細径《ほそみち》に覆ひかゝれる一老松あり。昼は近傍《きんりん》の頑童等《わらべら》こゝに来りて、松下の細流に小魚を網《あみ》する事もあれど、夜に入りては蛙のみ雨を誘ひて鳴き騒げども、その濁れる音調を驚ろき休《や》ます足音とては、稀に聞くのみなり。寺内に棲みける彼の按摩、その業《わざ》の為にはかゝる寂寥《さびしさ》にも慣れたれば、夜出でゝ夜帰るに、こはさといふもの未だ覚え知らず、五月雨《さみだれ》の細々たる陰雨の中《うち》に一二度は彼《かの》燐火をも見たれど、左して怖るゝ心も起らじと言へり。
 雨少しくそぼちて、桐の青葉の重げに垂《た》るゝ一夜、暮すぎて未《ま》だ程もあらせず、例の如く家を出でゝ彼の老松《らうしよう》の下《もと》に来掛りし時、突然|片影《かたかげ》より顕はれ出《いづ》るものありと見る間《ま》に、わが身にひたとかじりつき、逃げんとするも逃げられず、胆《きも》潰《つぶ》れながらも、其人を見れば、髪は乱れて肩にからみ、色は夜目にも青白
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