も是非なし、獄吏と天使とを識別すること能はざる盲眼をいかにせむ。
奇《く》しきかな、我は吾天地を牢獄と観ずると共に、我が霊魂の半塊を牢獄の外に置くが如き心地することあり。牢獄の外に三千|乃至《ないし》三万の世界ありとも、我には差等なし、我は我牢獄以外を我が故郷と呼ぶが故に、我が想思の趣くところは広濶《くわうくわつ》なる一大世界あるのみ、而して此大世界にわれは吾が悲恋を湊中《そうちゆう》すべき者を有せり。捕はれてこの牢室に入りしより、凡《すべ》ての記憶は霧散し去り、己れの生年をさへ忘じ果てたるにも拘《かゝ》はらず、我は一個の忘ずること能はざる者を有せり、啻《たゞ》に忘ずること能はざるのみならず、数学的乗数を以て追々に広がり行くとも消ゆることはあらず、木葉《このは》は年々歳々新まり行くべきも、我が悲恋は新たまりたることはなくしていや茂るのみ、江水は時々刻々に流れ去れども、我が悲恋はよどみよどみて漫々たる洋海をなすのみ、不思議といふべきは我恋なり。
もし我が想中に立入りて我恋ふ人の姿を尋ぬれば、我は誤りたる報道を為すべきにより、言はぬ事なり、言はぬ事なり、雷音洞主が言へりし如く我は彼女の
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