まつた。
 爐邊に安坐をかいてゐた母親は、何時か頭を振つてゐた。ランプの光で、顏にはつきり陰がつくと、急に母親の年寄つたのが分つた。
「母《ちゝ》みたえになれば、一番えゝ。」
 お文は母の方を見て云つた。
 ランプの焔の工合で家が明るくなつたり、暗くなつたりした。表の泥濘を草鞋をはいてペチヤ/\と通る足音が聞えた。
 ねぢのゆるんだ時計が八時のところでゆつくり四つ打つた。由は爐に外ツ方を向けたまゝ眠つてしまつた。源吉は雨工合を見るために一寸表へ出てみた。
 それから源吉は自分で仕度をした。お文は仕事をしながら、時々兄を見た。
「いゝのかい?」
 が源吉はだまつてゐた。源吉はすつかり仕度が出來ると、網を背負つて家を出た。雨は降つてゐなかつた。然し暗い夜だつた。彼は何度も足を窪地に落して、不意を喰つた。そんな處は泥水がたまつてゐるので、その度に思ひツ切り泥をはねあげて、顏までかゝつた。空には星が出てゐた。遠くの方で雜木林か何かに風が當つてゐるやうな音が不氣味に絶えずしてゐた。どつちを見ても明り一つ見えなかつた。遙か東南に、地平線のあたりがかすかに極く小部分明るく思はれた。岩見澤だつた。
 
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