だちはその声が遠くなり、聞えなくなる迄、足踏みをやめなかった。
出廷
寒い冬の朝、看守が覗《のぞ》きから眼だけを出して、
「今日は出廷だぜ。」
と云った。
飯を食ってから、俺は監房を出て、看守の控室に連れて行かれた。皆は火鉢《ひばち》の縁に両足をかけて、あたっていた。「火」を見たのは、それが始めてだった。俺はその隅の方で身体検査をされた。
「これは何んだ?」
袂を調べていた看守が、急に職業柄らしい顔をして、何か取り出した。俺は思わずギョッとした。――だが、それはお守だった。
「あ、お守だよ。」
俺はホッとして云った。
看守はあやふやな、分らない顔をして、
「へ――? お守?……どうしたんだ?」
と独り言のように云った。
「おふくろがね……。」
俺がそう云いかけると、その年寄った看守はみんな云わせず、
「あゝ、そうか、そうか、――そうだろう! 勿体《もったい》ないことだ!」
と云って、それを額へもって行って頂いた[#「頂いた」に傍点]。それから元通りにして、丁寧に袂にもどした。
「さ、両方手を出したり。」
看守が手錠の音をガチャ/\させて、戻ってきた。そして揃えて出した俺の両手首にそれをはめた。鉄の冷たさが、吃驚《びっくり》させる程ヒヤリときた。
「冷てえ!」
俺は思わず手をひッこめた。
「冷てえ?――そうか、そうか。じゃ、シャツの袖口をのばしたり。その上からにしよう。」
「有難《ありが》てえ。頼む!」
「こんな恰好見たら、親がなんて云うかな。不孝もんだ!」
年を取って指先きが顫えるらしく、それにかじかん[#「かじかん」に傍点]でいるので、うまく鍵穴に鍵が入らずガチャガチャとそのまわりをつッついた。向い合いながら、俺はその前こゞみになっている看守の肩を見ていた。
その日の出廷はもう一人いた。小柄な瘠せた男で、寒そうに薄い唇の色をかえていた。「第二無新」の同志らしかった。
俺は半年振りで見る「外」が楽しみでならなかった。護送自動車が刑務所の構内を出てから、編笠を脱ぎ、窓のカーテンを開けてもらった。――年の暮れが近く、街は騒々しく色々な飾をしていた。処々《ところどころ》では、楽隊がブカ/\鳴っていた。
N町から中野へ出ると、あののろい[#「のろい」に傍点]西武電車が何時のまにか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返える道がすっかりアスファルトに変っていた。随分長い間あそこに坐っていたのだという事が、こと新しい感じになって帰ってきた。
新宿は特に帰えりに廻わってもらうことにして、自動車は淀橋から右に入って、代々木に出て、神宮の外苑を走った。二人は窓硝子に頬も、額も、鼻もぺしゃんこに押しつけて、外ばかりを見ていた。青バスの後に映画のビラが貼られているのを見ると、一緒の同志が「出たら、第一番に活動を見たいな。」と云った。
時代錯誤な議事堂の建物も、大方出来ていた。俺だちはその尖塔《せんとう》を窓から覗きあげた。頂きの近いところに、少し残っている足場が青い澄んだ冬の空に、輪郭《りんかく》をハッキリ見せていた。
「君、あれが君たちの懐《なつか》しの警視庁だぜ。」
と看守がニヤ/\笑って、左側の窓の方を少しあけてくれた。俺ともう一人の同志は一寸顔を見合せた。――警視庁と云えば、俺は前に面白い小説を読んだことがあった。
警視庁の建築工事に働きに行っている労働者の話なんだが、その労働者がこの工事をウンと丈夫に作っておこうと云ったそうだ。ところが仲間に、よせやい、自分の首を絞めるものではないか、いゝ加減にやッつけて置けよとひやかされてしまった。すると、その労働者が、
「馬鹿云え。政権|一《ひと》度われらの手に入らば、あすこはゲー・ペー・ウの本部になるんだ。そのために今から精々立派な、ちっとやそっとで壊れない丈夫なものにして置くんだ!」
と云った。そういう筋のものだった。
小説嫌いの俺も、その言葉が面白かったので、記憶に残っていた。
その警視庁の高い足場の上で、腰に縄束をさげた労働者が働いていた……。それが小さく動いているのが見えた。
その日、予審廷の調べを終って、又自動車に乗せられると、今度は何んとも云えないイヤ[#「イヤ」に傍点]な気持ちがした。来るときは、それでもウキ/\していたのだ。
新宿は矢張り雑踏していた。美しい女が自動車の前で周章てるのを見ると、俺だちは喜んだ。――だが、何故こんなに沢山の「女」が歩いているのだろう。そして俺が世の中にいたとき、決してこんなに女が沢山歩いていなかった。これは不思議なことだと思った。女、女、女……俺だちの眼は、痛くなるほど雑踏の中から、女ばかりを探がし出していた……。
刑務所との距離が縮まって行く。俺だちは途中色んな冗談を云い合ったものだ。
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