独房
小林多喜二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)饒舌《じょうぜつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|燥《はし》ゃいで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ニヤ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 誰でもそうだが、田口もあすこ[#「あすこ」に傍点]から出てくると、まるで人が変ったのかと思う程、饒舌《じょうぜつ》になっていた。八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃい独房の一間《ひとま》に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、独《ひと》り言《ごと》でもした時の外はないわけだ。何かもの[#「もの」に傍点]をしゃべると云ったところで、それも矢張り独り言でもした時のこと位だろう。その長い間、たゞ堰《せ》き止められる一方でいた言葉が、自由になった今、後から後からと押しよせてくるのだ。
 保釈になった最初の晩、疲れるといけないと云うので、早く寝ることにしたのだが、田口はとうとう一睡もしないで、朝まで色んなことをしゃべり通してしまった。自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。
 これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。

     ズロースを忘れない娘さん

 S署から「たらい廻《ま》わし」になって、Y署に行った時だった。
 俺の入った留置場は一号監房だったが、皆はその留置場を「特等室」と云って喜んでいた。
「お前さん、いゝ処《ところ》に入れてもらったよ。」と云われた。
 そこは隣りの家がぴッたりくッついているので、留置場の中へは朝から晩まで、ラジオがそのまんま聞えてきた。――野球の放送も、演芸も、浪花節も、オーケストラも。俺はすっかり喜んでしまった。これなら特等室だ、蒸《む》しッ返えしの二十九日も退屈なく過ごせると思った。然し皆はそのために「特等室」と云っているのではなかった。始め、俺にはワケが分らなかった。
 ところが、二日目かに、モサ(スリのこと)で入っていた目付のこわい男が、ニヤ/\してながら自分の坐っている側へ寄って来てみれと云った。俺は好奇心にかられて、そこへズッて行くと、
「あすこを見ろ。」
 と云って、窓から上を見上げた。
 俺はそれで「特等室」の本当の意味が分った。
 高い金棒の窓の丁度真ッ上が隣りの家の「物ほし」になっていて、十六七の娘さんが丁度洗濯物をもって、そこの急な梯子《はしご》を上って行くところだった。――それが真ッ下から、そのまゝ見上げられた。
 その後、誰か一人が合図をすると、皆は看守に気取られないように、――顔は看守の方へ向けたまゝ、身体だけをズッて寄って行くことになった。
「ちえッ! 又、ズロースをはいてやがる!」
 なれてくると、俺もそんな冗談を云うようになった。
「共産党がそんなことを云うと、品なしだぜ。」
 とエンコ(公園)に出ている不良がひやかした。
 よく小説にあるように、俺たちは何時でもむずかしい、深刻な面をして、此処《ここ》に坐ってばかりいるわけではないのだ。この決してズロースを忘れない娘さんに対する毎日々々の「期待」が、蒸しッ返えしの長い長い二十九日を、案外のん気に過ごさしてくれたようである。勿論《もちろん》その間に、俺は二三度調べに出て、竹刀《しない》で殴《な》ぐられたり、靴のまゝで蹴《け》られたり、締めこみをされたりして、三日も横になったきりでいたこともある。別の監房にいる俺たちの仲間も、帰えりには片足を引きずッて来たり、出て行く時に何んでもなかった着物が、背中からズタ/\に切られて戻ってきたりした。
「やられた」
 と云って、血の気のなくなった顔を俺たちに向けたりした。
 俺たちはその度に歯ぎしりをした。然し、そうでない時、俺たちは誰よりも一番|燥《はし》ゃいで、元気で、ふざけたりするのだ。
 十日、七日、五日……。だん/\日が減って行った。そうだ、丁度あと三日という日の午後、夕立がやってきた。
「干物! 干物!」
 となりの家の中では、バタ/\と周章《あわ》てゝるらしい。
 しめた! 俺はニヤリとした。それは全く天裕《てんゆう》だった。――今日は忘れるぞ。
 雨戸がせわしく開いて、娘さんが梯子を駈け上がって行く。俺は知らずに息をのんでいた。
 畜生! 何んてことだ、又忘れてやがらない! 俺たちはがっかりしてしまった。
「六号!
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