それが丁度当っていた、そのためには明後日にせまっている二十八日に少なくとも決定的な闘争をしなければならないと云った。
 見解は一致していた。だから問題はその決定的な闘争をどんな形で持ち込むかにあった。――須山は考えていたが、「こゝまで準備は整っているし、みんなの意気も上がっているのだから、あとは大衆的\煽動《せんどう》で一気に持って行くことだ。」と云った。それから一寸言葉を切って、
「この一気が、一気になるか二気になるかで、勝ち負けが決まるんじゃないかな……?」
「そ。あとは点火夫だけが必要なのよ――八百人のために!」
伊藤はめずらしく顔に興奮の色を出した。
「俺、最近――と云っても、この二三日なんだが、少しジレ/\してるんだ。今迄色々な遣《や》り方で福本イズムの時代のセクトを清算しながらやってきたが、まだ矢張りそれが残っている。今一息というところで、この工場を闘い抜けないのが、そこから来ているんじゃないかな……?」
 須山は私の顔を見て云った。
「誰かが大衆の前で公然とやらかさないと、闘いにならないと思うんだ。量から質への転換だからな。――俺、それは極左的でない[#「極左的でない」に傍点]と思うんだが、どうだろう?」
 須山は、誰かゞそれを「極左的だ」と云ったかのように、それに力をこめて云った。
 私は「独断《ドグマ》」ではなく、「納得」によって闘争を進めて行かなくてはならぬ。それで私は黙って、たゞ問題が正しい方向に進むように、注意していたゞけだった。ところが、それは矢張り正しいところへ向ってきていた。殊に伊藤や須山が仕事のやり方を理窟からではなく、刻々の工場内の動きの解決という点から出発して、而《し》かもそれが正しいところに合致しているのだ。これは労働者の生活と離れていないところから来ていることで、我々の場合こゝに理論と実践の微妙な統一がある。
 ――私は、それを極左的だというのは、卑怯《ひきょう》な右翼\日和見《ひよりみ》主義者が自分の実践上での敗北主義をゴマ化すために、相手に投げつける言葉でしかないと、須山に云った。須山は「そうだ!」と云った。
 私はそこで、私の案を持ち出した。瞬間、抑えられたような緊張がきた。が、それは極く短い瞬間だった。
「俺もそうだと思う……」
 須山はさすがにこわばった声で、最初に沈黙を破った。
 私は須山を見た。――と、彼は、
「それは当然俺がやらなけアならない。」
と云った。
 私はそれに肯《うなず》いた。
 伊藤は身体をこッちりと固くして、須山と私、私と須山と眼だけで見ていた。――私が伊藤の方を向くと、彼女は口の中の低い声で、「異議、な、し、――」と云った。
 見ると、須山は自分でも知らずに、胡坐《あぐら》の前のバットの空箱を細かく、細かく切り刻んでいた。
 それが決まった時、フト短い静まりが占めた。すると今迄気付かずにいた表通りを通る人達のゾロ/\した足音と、しきりなしに叫んでいる夜店のテキヤの大きな声が急に耳に入ってきた。
 それから具体的なことに入った。――最近ビラや工新の「マスク」が、女の身体検査がルーズなために女工の手で工場に入っていると見当をつけて、女工の身体検査が急に厳重になり出している。それで当日は伊藤が全責任を持ち、両股《もも》がゴムでぴッしりと強く締まるズロースをはいて、その中に入れてはいること。彼女は朝Sの方からビラを手に入れたら、街の共同便所に入って、それをズロースに入れる。工場に入ってからは一定の時間を決めて、やはり便所を使って須山に手渡す方法をとる。ビラは昼休に屋上で撒くこと。それらを決めた。
 会合が終ると、今迄抑えていた感情が急に胸一杯にきた。
「永い間のお別れだな……!」
と私が須山に云った。
 すると、彼は、
「俺の友達にこんなのがある」と云った、「仲の良い二人の友達なんだが、一人は三・一五で三年やられたんだ。ところがモウ一人は次の年の四・一六で四年やられた。三・一五の奴が出てきて、昨年の一二月又やられ、三年になった。そいつ[#「そいつ」に傍点]は四・一六の奴の出てくるのを楽しみにしていたんだ。それで監獄に入るときに曰《いわ》くさ、俺とあいつはどうも永久にこうやって入りくり[#「入りくり」に傍点]になって会えないらしい、だが結構なことだって……!」
 そして、「これは俺の最後の切抜帳《スクラップ・ブック》かな?」と自分で云った。
 私と伊藤は――思わず噴《ふ》き出した。が、泣かされるときのように私の顔は強わばった。
「どんなことがあったって、こゝ[#「こゝ」に傍点]の組織さえがッちりと残っていれば、闘争は根をもって続けられて行くんだから、君だけはつかまらないようにしてくれ。――君がつかまったら、俺のしたことまでもフイで、犬死になるんだからな!」
と、須山が云った。
 私たちは今日の決定通りに準備をすすめ、二十六日の夜モウ一度会うことにして、
「じア……」と立ち上がった。そのとき私と須山はそんなことをしようとは考えてもいなかったのに、部屋の真ん中に突ッ立ったまゝ両方から力をこめて手を握り合っていた。
 フト須山は子供のようにテレ[#「テレ」に傍点]て、
「何んだ、佐々木の手は小《ち》ッちゃいな!」
と、私に云った。

 須山は外へ出ながら、モウこれからは機会もないだろうと思って、私の家《うち》に寄ってきたと云った。「君のおふくろは、合う度に何んだか段々こう小さくなって行くようだ。」と云った。
「…………?」
 私は何を云うんだろうと思った。が、フイにその「段々小さくなってゆく」という須山の言葉は、私の心臓を打った。私はその言葉のうちに、心配事にやつれてゆく母の小さい姿がアリアリと見える気がした。――が、こういう時にそんな事を云う奴もないものだ、と思った。私はさりげなく、たゞ「そうだろうな……」と云って、その話の尻《しり》を切ってしまった。
 須山と別れてから、伊藤が次の連絡まで三十分程間があるというので、私と少しブラブラすることになった。私たちは、二十六日には須山のために小さい会をしてやろうということを話した。そのために伊藤が菓子とか果物を買ってくることにした。
 伊藤は何時もは男のように大股《おおまた》に、少し肩を振って歩くのが特徴だった、それが私の側を何んだが女ッぽく、ちょこちょこと歩いているように見えた。別れるとき彼女は「一寸待ってネ」と云って、小さい店屋に入って云った。やがて、買物の包みを持って出てくると、
「これ、あんたにあげるの――」
と云って、それを私に出した。そして、私が「困ったな!」と云うのに、無理矢理に手に持たしてしまった。
「此頃あんたのシャツなど汚れてるワ。向うじゃ、ヨクそんなところに眼をつけるらしいのよ!」
 下宿に帰って、その包みを開けてみながら、フト気付くと私は伊藤と笠原を比較してみていた。同じく女だったが、私は今までに一度も伊藤を笠原との比較で考えてみたことは無かったのだ。だが、伊藤と比らべてみて、始めて笠原が如何《いか》に私と遠く離れたところにいるかということを感じた。
 ――私はもう十日位も笠原のところへは行っていなかった……。



 倉田工業の屋上は、新築中の第三工場で、昼休になると皆はそこへ上って行って、はじめて陽の光りを身体一杯にうけて寝そべったり、話し込んだり、ふざけ廻ったり、バレー・ボールをやったりした。その日はコンクリートの床に初夏の光が眩《まぶ》しいほど照りかえっていた。須山は自分のまわりに仲間を配置して、いざという時の検束の妨害をさせる準備をしておいた。
 一時に丁度十五分前、彼はいきなり大声をあげて、ビラを力一杯、そして続け様に投げ上げた。――「大量馘首絶対反対だ!」「ストライキで反対せ!」……あとは然し皆の声で消されてしまった。赤と黄色のビラは陽をうけて、キラ/\と光った。ビラが撒《ま》かれると、みんなはハッとしたように立ち止まったが、次にはワアーッと云って、ビラの撒かれたところへ殺到してきた。すると、そのうちの何十人というものが、ムキになって拾いあげたビラを、てんでに高く撒きあげた。それで最初一カ所で撒かれたビラは、またゝく間に六百人の従業員の頭の上に拡がってしまった。――こんなことがあるだろうと、予《あらかじ》め屋上の所々に立ち番をしていた守衛は、「こら、こら! ビラを拾っちゃいかん!」と声を限り叫んで割り込んできたが、さて誰が撒いたのか見当がつかなくなってしまった。見ると誰でも、かれでもビラを撒いているのだ。
 仕方のなくなった守衛は、屋上からの狭い出口を厳《かた》めて、そこから一人ずつ通して首実検をしようとしたが、そんなことをしていたら一時間経っても仕事が出来ない。皆は、太いコンクリートの煙突から就業のボーが鳴り出すと、腕を組んでその狭い入口めがけて「ワッショ、ワッショ!」と押しかけてしまった。そうなれば、守衛には最早どうにも手がつかなかった。――伊藤が見ていると、須山はその人ごみの中を糞《くそ》落付きに落付いて、「悠然《ゆうぜん》と」降りて行ったそうである。
 あとでおやじが「誰が撒いたか知らないか?」と一人一人訊《き》きまわったが、確かに須山が撒いたことを知っているものが居るにも拘《かかわ》らず、誰も云うものがいなかった。青年団の馬鹿どもが、口惜しがって、プンプンした。その日、須山のいる第二工場と、伊藤たちのパラシュートでは気勢が挙がって、代表を選んで他の工場とも交渉し、会社に抗議しようというところまで来た。
 帰りに須山と伊藤が一緒になると、彼は「こういう時は、俺だちだって泣いてもいゝんだろうな!」と云って、無暗に帽子をかぶり直したり、顔をせわしくこすったりした。
 途中、彼は何べんも何べんも、「こうまでとは思わなかった!」「こうまでとは思わなかった! 大衆の支持って、恐ろしいもんだ!」と、繰りかえしていた。
 私はビラを撒いた日の様子をきくために、その日おそく伊藤と連絡をとっておいた。私は全く須山が一緒にやって来ようとは考えてもいなかったのだ。私は伊藤の後から入ってきた須山を、全く二三度見直した位である。それが紛れもなく須山であることが分ったとき、私は思わず立ち上がった。
 私はそこで詳しいことを聞いたのである。私も興奮し、須山が伊藤に云ったという云い方を真似して、「こういう時は俺だちだってビールの一杯位は飲んだっていゝだろう!」と、三人でキリンを一本飲むことにした。
 須山は躁《はしゃ》いで、何時《いつ》もの茶目を出した。
「あのビラ少し匂いがしていたぞ!」
と、伊藤にそんなことを云った。私は、「こら!」と云《い》って、須山の肩をつかんで、笑った。
 然《しか》し、決定的な闘争はむしろ明日のきん坤《こん》[#「きん坤」に傍点]一番にあるので、私たちはそれに対する準備を更に練った。

 次の朝、職工たちが工場に行くと、会社は六百人の臨時工のうち四百人に、二日分の日給を渡して、門のところで解雇してしまった。ケイサツが十五六人出張してきていて、日給を貰いはしたものゝ呆然《ぼうぜん》として、その辺にウロ/\している女工たちに、「さア帰った、帰った!」と、追い戻していた。
 勘定口の側に、「二十九日仕事の切上げの予定のところ、今日になりました。然し会社は決して皆さんに迷惑を掛けないようにと、それまでの二日分の日給を進んでお払いしますから、当会社の意のあるところをお汲《く》み願います。なお又新しい仕事がある時は、会社としては皆さんに採用の優先権を認めますから、お含み下さい。」と、大きな掲示が出ていた。臨時工を二百人だけ後に残したことにも、彼等のコンタンがある。歩調を乱れさせたわけだ。
 解雇組には須山も伊藤も入っていた。――私たちは土俵際でまんまと先手を打たれてしまった。――須山と伊藤は見ていられないほどショげてしまった。私とても同じである。然し敵だって、デクな人形ではない。私たちは直ぐ立ち直り、この失敗の経験を取り上げ、逆転した情勢をそのまゝに放棄せずに、次の闘争に役立
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