めに父はひどく心臓を悪くしていた。――私はどうしてもうつ[#「うつ」に傍点]伏せにならないと眠れないとき、自分がだん/\父と似てくるように思われた。然し父は、地主に抗議して小作料を負けさせることをせずに、自分の身体をこわ[#「こわ」に傍点]してまで働くことでそれから逃れようとした、二十何年も前のことだが。然し私はちがう。私はたった一人の母とも交渉を断ち、妹や弟からも行衛《ゆくえ》不明となり、今では笠原との生活をも犠牲にしてしまった形である。それに加えてどうやら私は自分の身体さえそのために壊れかけているようだ――これらは然し私の父のように地主や資本家にモッと奉公してやるためでなく、まさにその反対のためである!
私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘《かさ》をさして行くので、顔を他人《ひと》に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき[#「身体つき」に傍点](こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまま分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。――然しこういう生活に入ってから、私は季節に対して無関心になったのではなくて、むしろ今迄少しも思いがけなかったような仕方で非常に鋭敏になっていた。それは一昨年刑務所にいたとき季節々々の移りかわりに殊の外鋭敏に感じたその仕方とハッキリちがっている。
これらは意識しないで、そうなっていた。置かれている生活が知らずにそうさせたのである。もと、警察に追及されない前は、プロレタリアートの解放のために全身を捧《ささ》げていたとしても、矢張り私はまだ沢山の「自分の」生活を持っていた。時には工場の同じ組合の連中(この組合は社民党系の反動組合だった。私はそこでの反対派として仕事をしていた)と無駄話をしながら、新宿とか浅草などを歩き廻わることもしたし、工場細胞としての厳重な政治生活が規制されていたが、合法生活が当然伴う「交際」だとか、活動写真を見るとか、(そう云えば私は最近この活動写真の存在ということをすッかり忘れてしまっている!)飲み食いが私の生活の尠《すく》なからざる部分を占めていた。時にはこういう生活から、工細としての仕事を一二日延ばしたりしたことがあった。又自分だけの名誉心が知らずに働いていて、自分の名誉を高めるような仕事と工細の仕事と食い合ったとき、つい[#「つい」に傍点]自分の方のことから先きに手がついたことが一再ならずあった。これは勿論《もちろん》その後の仕事のなかで変ってきたが、それでも党員としての「廿四時間の政治生活」を私がしていたとは云えなかった。然しそれは私にばかり罪があるのではない。一定の生活が伴わない人間の意識的努力には限度がある。一切の個人的交渉が遮断され、党生活に従属されない個人的欲望の一切が規制される生活に置かれてみて、私が嘗《か》つて清算しよう清算しようとして、それがこの上もなく困難だったそれらのことが、極めて必然的に安々と行われていたのを知って驚いた。それはこれまでの一二カ年間の努力を二三カ月に縮めて行われた。と云うことが出来る。始めこの新しい生活は、小さい時誰が一番永く水の中に潜ぐっているかという競争をした時のような、あの堪えられない何んとも云えない、胸苦しさを、感じはしたが。――だが、勿論私はまだ本当の困難に鍛錬されてはいない。須山とちがった切抜《スクラップ》の好きなSは、私の「廿四時間の政治生活」というのに対して、「一日を廿八時間に働いても疲れを知らないタイプ」に自分を鍛えなければ駄目だと云っている。
一日を廿八時間に働くということが、私には始めよくは分らなかったが、然し一日に十二三回も連絡を取らなければならないようになった時、私はその意味を諒解《りょうかい》した。――個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活、私はそれに少しでも近附けたら本望である。
倉田工業は、臨時工の若干を本工に直すかも知れないという噂《うわ》さで、最後のピッチを挙げていた。私たちはそれにそなえるために、細胞の再編成をやることにした。須山のグループ(影響下)から一人、それは若い本工だった、それから伊藤のグループから二人、そのうち一人は本工、一人は臨時工だった、この三人を新しく細胞に推薦することにして、「履歴」を取った。私はそれを「オル」に持って行き、承認を得た。そして各細胞に対しては職場内での責任を明確に分担して背負わせ、須山や伊藤に万一のことがあった場合、あとのものが直ちに予定された新しい部署について仕事が一日でも遮断《しゃだん》されることがないように手筈を決めた。須山や伊藤に何か事が起れば、工場にいると直《す》ぐ分るので、その時は新しい細胞が須山と私との連絡場所にやってくることにしてあった。私たちの会合は闘争の司令部なので、どんなことがあっても連絡が絶たれ、そのために一刻を争うときに対策や方針が出ないということは階級的裏切りであった。誰かゞやられ連絡が切れたゝめに、うまく行かなかった――こういう今迄のやり方は、恰《あた》かも我々に最初から弾圧が無いかのような、又はそれを全く予想していないかのような、敗北的な見地に立っている。誰かゞやられるかも知れないのは分り切っているのだ。私たちは、だから最初から二段、三段の準備をして闘争をすゝめて行かなければならぬ。
事実「僚友会」で乱闘をやってから、須山は極度に危くなっていた。須山は今日やられるか、明日やられるかを覚悟して、毎日工場に出ていた。工場なので、仕事をしているときに「一寸《ちょっと》来い」をやられると、それっきりだった。然し組織の可能性が高まっていたので、彼は出ていた。危くなったが、同時に職場の中で或《あ》る程度のことを公然と云える自由を得たし、みんなの信用が出て来ていた。
月末が近づいた。会社はこの三十日か三十一日に首切りをやるらしかった。本工に直すと云っても、まだそれが少しも具体化していないので、皆はようやく疑いをかけてきた。「マスク」で、このやり方がギマンであって、それによって一方では仕事の能率を高め、他方ではみんなの反抗を押しとゞめるためであることを書いたが、その意味がジカに分りかけていた。臨時工が重なので、首切りが発表されてからでは団結力が落ちる。この二三日に事を決めなければならなかった。
私たちはビラやニュースで、戦争に反対しなければならないことをアッピールしてきたが、彼等が一度その首切りのことで立ち上ったら、それはレーニンの言い草ではないが、何故戦争に反抗しなければならないかを「お伽噺《とぎばなし》のような速さで」教える。殊《こと》に軍器を作っている工場であるだけ、ハッキリと意識的な闘争が出来るのだ。――まず事を起さなければならぬ。
私は最後の肚《はら》をきめた。
それは伊藤や須山の影響下のメンバー、新しい細胞に各職場を分担させて一斉《いっせい》に「馘首《かくしゅ》反対」の職場の集会を持たせることだった。そしてそれを成功させるために工場の中で須山に公然たるビラ撒《ま》きをさせる。――伊藤の「しるこや組」に、兄が倉田工業の社員である女工がいた。その女工の口から三十一日ではなくて(三十一日のように思い込ませて置いて)先手を打って二十九日に一斉に首切りをやることが分った。その時は警察ばかりでなく軍隊も出るらしかった。従って是が非でも二十八日[#「二十八日」に傍点]にストライキをやって、こっちが逆に先手を打たなければならない。
ところが、須山には最近やられるらしい危険性がある。伊藤からの報告だったが、ケイサツの私服が事務所のなかゝら一二度出て行くのを見ているし、須山のいる第二工場の入口でよくおやじと立話していた。それがこの一二日なのである。太田がやられてからも、党のビラが二度、「マスク」が二度も入っている。向うが須山をにらんでいることは最早疑うことは出来なかった。それに「共産党」と云えば、何処か知れない「上《うえ》の方に」いたり、或《ある》いは「地の底に」もぐって出没している神様か魔物であるかのように考え、又考え込ませられている。だが本当は須山のように皆から信用のある、自分たちのそばで肩をならべて働いているものがそうであることを、ハッキリと示し、親しみと信頼を起させる必要があった。――私が須山に公然と党のビラを撒かせる決意をしたのは、そこから来ていた。
最後を闘うためには、仮りに須山がいないとしてもそれは他の誰かゞやらなければならない任務だったのだ。陰謀的な仕方ばかりでは、大衆的動員は行われない。見えない組織をクモの巣のようにのばして置いて、そこへ公然たる煽動《せんどう》を持ち込まなければならないのだ。
その最後の対策をたてるために、私たちはエンコすることになった。この案はそこに出され、決められるのだったが――然し須山のことを考えると、私はさすがに心がしめつけ[#「しめつけ」に傍点]られた。党のビラを撒いたとなれば、闘争経歴にもよるが、二三年から四五年の懲役を覚悟しなければならないのだ。何時《いつ》もなら、私は外へ一歩出たら、元とはちがって、一切の空想ごとや考えごとをやめて、四囲《まわり》に注意して歩くことにしていたが(そしてそれは可なり慣れていたが)、その日は、フト気付くと私は直ぐ須山のことを考えていた。だが、そんなに須山のことに立ち停《どま》っていることはよくないことなのだ。須山にしても、自分たちの置かれている情勢をハッキリと見ていれば、このことを一つの必然として、而かも不可欠のものとして理解することが出来る筈なのだ。そこに別の道或いは除けて通れる道が一つもなく、しかもプロレタリアートの解放のためにはどうしてもその道を通らなければならないとすれば、私たちはそこから何か仕事以外のもの、例えばこんな事をすることが「残酷なこと」ではないだろうかとか、又は「同情に堪えないこと」ではないだろうかとか、凡《およ》そそんなことが引き出せるわけがないのだ。
だが、会合の場所に行くまで、私の頭にあの突拍子もない切抜帳《スクラップ》で私たちを笑わせる須山の顔が来て困った。
場所は今まで三度位使ったことのある須山の昔の遊び(飲み)友達の家だった。足元の見えない土間で下駄を脱ぎ、それを懐に入れて、二階に上がって行くと、斜めに光が落ちて来て、須山の顔がのぞいた。
伊藤は壁に倚《よ》りかゝって、横坐りに足をのばし、それを自分でもん[#「もん」に傍点]でいた。私が入って行くと、後れ毛を掻《か》き上げるようにして、下からチラと見た。私は「この前は!」と云った。彼女はそれには別に答えなかった。工場のオルグをやると、どうしても白粉ッ気が多くなるが、細胞の会合のときに伊藤は今まで一度も白粉気のある顔をしてきたことがなかった、又その必要もなかったので。フト見ると、ところが伊藤は今迄になく綺麗《きれい》な顔をしていた。
「同志伊藤は今男の本工を一人オルグしてのお帰りなんで――」
と、須山は又すぐ茶目て、伊藤の顔を指さした。
そんな時は何時もの伊藤で、黙っていた。が、彼女は何故《なぜ》か私の顔をその時見た。
会が始まってから、私は何時もやることになっている須山の報告に特に注意した。彼はこの前の細胞会議の決定にもとづいて、職場々々に集会を持たせるように手配したが、工場の様子を見ていると、ここ二三日が決定的瞬間らしく、そのためには今至急何んとか[#「何んとか」に傍点]しなければならないと云った。
伊藤はそれにつけ加えて、前に私に報告してある馘首《かくしゅ》がこの三十一日と見せかけて実は二十九日にやるらしいこと、パラシュートやマスクの引受高から胸算してみると、
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