は今迄笠原の給料で間代や細々《こまごま》した日常の雑費を払い、活動に支障がないように、やっとつじつまを合せてきていたので、彼女の首は可なりの打撃だった。だが、そうと決れば、この際少しでも沢山の金を商会から取ることだったが、私が非合法なので強いことは云えなかった。事実、主任は警察の手が入らないだけ君の儲《もう》けなのだから、おとなしく引いて貰《もら》いたいと、暗に釘を打っていた。
私たちはテキ面に困って行った。悪いことには、それが直《す》ぐ下のおばさんに分る。下宿だけはキチンとして信用を得て置かなければ、うさん臭く思われる。そうなるとそれはたゞ悪いというだけで済まなくて、危険だった。それで下宿代だけはどうしても払うことにした。だがそうすると、あと二三円しか残らなかった。二三円などは直ぐ無くなる。笠原は就職を探すために、毎日出掛けて行くし、私も一日四回平均には出なければならなかった。私は今まで乗りものを使っていたところを歩くことにした。そのために一つの連絡をとるのに、その前後三四十分という時間が余分にかゝり処《ところ》によると往きと帰りに二時間もかゝり、仕事の能率がメキ/\と減って行った。私は「基金カンパ」を起しているのだと云って、会う同志毎に五銭、十銭とせしめた。こうなると、須山の「神田伯山」もないものだ、と私は苦笑した。須山や伊藤は心配してくれた。自分たちは合法的な生活をしているので、金が無くても致命的ということは尠《すくな》いし、それに誰からでも金は借りられると云うので、日給から五十銭、一円と私のために出してくれた。私は、そういう金はウカツに使えないと思ったので、仕事のための交通費に当て、飯の方を倹約した。なす[#「なす」に傍点]が安くて、五銭でも買おうものなら、二三十もくるので、それを下のおばさんのヌカ味噌[#「ヌカ味噌」に傍点]の中につッこんで貰《もら》って、朝、ひる、夜、三回とも、そのなす[#「なす」に傍点]で済ました。三日もそれを続けると、テキ面に身体にこたえてきた。階段を上がる度に息切れがし、汗が出て困った。
腹が減り、身体が疲れているのに、同じものだと少しも食欲が出なかった。終《しま》いには飯にお湯をかけ、眼を力一杯につぶって、ザブ/\とかッこんだ。それでも飯のあるときはよかった。夜三つ位の連絡を控えていて、それも金がないので歩き通さなければならない時、朝から一度しか飯を食っていない時は、情けない気がした。私は一度その同志に会えたらパン位にはありつけるだろうと、当てにして行ったのだが、まんまと外ずれてしまったことがあった。その同志は気の毒そうな顔をして、自分はこの次にMに会うが、或いはパン代位は出そうだから一緒に行ってみようと云った。Mとは顔見知りだし、我慢の出来なくなった私はそうすることにした。私はそこでパンとバタにありつけた。Mは「パン一斤《きん》食うために、大の男がのこ/\出掛けてきて、つかまったりしたら、事だぜ!」と笑った。「まず、我にパンを与えよ、だよ!」私はそんなことを云って笑ったが、――こういう状態が続くということは全くよくないことだと思った。しっかりと腰を据え、長い間決してつかまらずに仕事をしてゆくためには、こんな無理や焦り方をしては駄目だ。
私は最後の手段をとることにきめた。その日帰ってきて、私は勇気を出し、笠原にカフェーの女給になったらどうかと云った。彼女は此頃では毎日の就職のための出歩きで疲れ、不機嫌になっていた。私の言葉をきくと、彼女は急に身体を向き直し、それから暗いイヤな顔をした。私はさすがに彼女から眼をそらした。だが、彼女はそれっきり頑《かた》くなに黙りこんだ。私も仕方なく黙っていた。
「仕事のためだって云うんでしょう……?」
笠原は私を見ずに、かえって落付いた低い声で云った。それから私の返事もきかずに、突然カン高い声を出した。
「女郎にでもなります!」
笠原は何時《いつ》も私について来ようとしていないところから、為《な》すことのすべてが私の犠牲であるという風にしか考えられなかった。若《も》しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆《ほと》んど全部の生涯を犠牲にしている。須山や伊藤などゝ会合して、帰り際になると、彼等が普通の世界の、普通の自由な生活に帰ってゆくのに、自分には依然として少しの油断もならない、くつろぎのない生活のところへ帰って行かなければならないと、感慨さえ浮かぶことがある。そして一旦《いったん》つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲といっても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水呑《みずのみ》百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からもジカに知ること
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