見ていなかった。私は時々両側に眼をやった。私がその辺を歩いたことがあってから随分変っていた。何時の間にか私は貪《むさぼ》るように見入っていた。私は曾《か》つてこれと似た感情を持ったことがある。それは一昨年刑務所へ行っていたときだった。予審廷へ出廷のために、刑務所の護送自動車に手錠をはめられたまゝ載せられて裁判所へ行く途中、私はその鉄棒のはまった窓から半年振りで「新宿」の雑踏を見た。私は一つ一つの建物を見、一つ一つの看板を見、一つ一つの自動車を見、そして雑踏している人たちの一人々々を見ようとした。私は、その人ごみの中に、誰か顔見知りの同志でも歩いているのではないだろうかと、どの位注意したか分らなかった。その後、刑務所の独房に帰ってから一二日眼がチカ/\と痛かったことを覚えている。
 自動車が四丁目の交叉《こうさ》点にくると、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴って、向う側の電柱に赤が出た。それで私の乗っている自動車は停車線のところで停まってしまった。直《す》ぐ窓際を色々な人の群がゾロゾロと通って行った。私は気が気でなかった。なかには車の中を覗《のぞ》き込んでゆくものさえいる。私は、イザと云えば逃げられるように、反対側のドアーのハンドルに手をかけたまゝ、顎《あご》を胸に落していた。やがて、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴り出した。私はホッとしてハンドルの手をゆるめた。
 私はゾロ/\と散歩をしている無数の人たちを見たが、そう云えば、私は自分の生活に、全く散歩というものを持っていないことに気附いた。私にはブラリ[#「ブラリ」に傍点]と外へ出るということは許されていないし、室の中にいても、うかつに窓を開けて外から私の顔を見られてはならないのだ。その点では留置場や独房にいる同志たちと少しも変らなかった。然しそれらの同志たちよりも或《あ》る意味ではモットつらいことは、ブラリと外へ出ることが出来て、しかもそれを抑《おさ》えて行かなければならなかったからである。
 だが、私にはどうしてもそうしなければならぬという自覚があったからよかったが、一緒にいる笠原にはずい分そのことがこたえる[#「こたえる」に傍点]らしかった。彼女は時には矢張り私と一緒に外を歩きたいと考える。が、それがどうにも出来ずにイラ/\するらしかった。それに笠原が昼の勤めを終って帰ってくる頃、何時でも行きちがいに私が外へ出た。私は昼うちにいて、夜ばかり使ったからである。それで一緒に室の中に坐るという事が尠《すく》なかった。そういう状態が一月し、二月するうちに、笠原は眼に見えて不機嫌《ふきげん》になって行った。彼女はそうなってはいけないと自分を抑えているらしいのだが、長いうちには負けて、私に当ってきた。全然個人的生活の出来ない人間と、大部分の個人的生活の範囲を背後に持っている人間とが一緒にいるので、それは困ったことだった。
「あんたは一緒になってから一度も夜うちにいたことも、一度も散歩に出てくれたこともない!」
 終《しま》いには笠原は分り切ったそんな馬鹿なことを云った。
 私はこのギャップを埋めるためには、笠原をも同じ仕事に引き入れることにあると思い、そうしようと幾度か試みた。然《しか》し一緒になってから笠原はそれに適する人間でないことが分った。如何にも感情の浅い、粘力のない女だった。私は笠原に「お前は気象台[#「気象台」に傍点]だ」と云った。些細《ささい》のことで燥《はしゃ》いだり、又逆に直《す》ぐ不貞腐《ふてく》された。こういう性質《たち》のものは、とうてい我々のような仕事をやって行くことは出来ない。
 勿論《もちろん》一日の大半をタイピストというような労働者の生活からは離れた仕事で費し、帰ってきてからも炊事や、日曜などには二人分の洗濯などに追われ、それは随分時間のない負担の重い生活をしていたので、可哀相《かわいそう》だったが、彼女はそこから自分でグイと一突き抜け出ようとする気力や意識さえもっていなかった。私がそうさせようとしても、それに随《つ》いて来なかった。
 私は自動車を途中で降り、二《ふた》停留所を歩き、それから小路に入り、家に帰ってきた。笠原は蒼《あお》い、浮かない顔をして室の中に横坐りに坐っていた。私の顔をみると
「首になったわ……」
と云った。
 それがあまり突然なので、私は立ったまゝだまって相手を見た。
 ――笠原は別に何もしていなかったのだが、商会では赤いという噂《うわ》さがあった。それで主任が保証人である下宿の主人のところに訪ねてきた。ところが、彼女は以前からそこにいないということが分ってしまった。私のアジトは絶対に誰にも知らしてはならないので、彼女は自分の下宿を以前のところにしてあったのである。商会ではそれでいよ/\怪しいということになり、早速やめさせたのだった。
 私
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