党生活者
小林多喜二

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●表記について
本文中、二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)は「/\」で表した。また、濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」で表した。
●テキスト版独自の表記について
本文中、漢字の熟語が連続し、後半部にのみルビがつけられる場合には、「仲々\愛嬌《あいきょう》」のように「\」で区切りを示した。
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 洗面所で手を洗っていると、丁度窓の下を第二工場の連中が帰りかけたとみえて、ゾロ/\と板草履《ぞうり》や靴バキの音と一緒に声高な話声が続いていた。
「まだか?」
 その時、後に須山が来ていて、言葉をかけた。彼は第二工場だった。私は石鹸《せっけん》だらけになった顔で振りかえって、心持\眉《まゆ》をしかめた。――それは、前々から須山との約束で、工場から一緒に帰ることはお互避けていたからである。そんな事をすれば、他の人の眼につくし、万一のことがあった時には一人だけの犠牲では済まないからであった。ところが、須山は時々その約束を破った。そして、「やアあまり怒るなよ」そんなことを云って、人なつこく笑った。須山はどっちかと云えば調子の軽い、仲々\愛嬌《あいきょう》のある、憎めないたちの男だったので、私はその度に苦笑した。が、今は時期が時期だし、私は強《き》つい顔を見せたのである。それに今日これから新しいメンバーを誘って何処《どこ》かの「しるこ屋」に寄る予定にもなっていた……。が、フト見ると、ひょウきんな何時《いつ》もの須山の顔ではない。私はその時私たちのような仕事をしているものゝみが持っているあの「予感」を突嗟《とっさ》に感じて、――「あ直《す》ぐだ」と云って、ザブ/\と顔を洗った。
 相手にそれと分ったと思うと須山は急に調子を変えて、「キリンでゞも一杯やるか」と後から云った。が、それには一応\何時《いつ》もの須山らしい調子があるようで、しかし如何《いか》にも取ってつけた只《ただ》ならぬさがあった。それが直接《じか》に分った。
 外へ出ると、さすがに須山は私より五六間先きを歩いた。工場から電車路に出るところは、片方が省線の堤で他方が商店の屋並に狭《せば》められて、細い道だった。その二本目の電柱に、背広が立って、こっちを見ていた。見ているような見ていないようなイヤな見方だ。私は直《す》ぐ後から来る五六人と肩をならべて話しながら、左の眼の隅《すみ》に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいいような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出《で》と退《ひ》けに張り込んでいた。須山はこの直ぐ横を如何にも背広を小馬鹿にしたように、外開《そとびら》きの足をツン、ツンと延ばして歩いてゆく。それがこっちから見ていると分るので、可笑《おか》しかった。
 電車路の雑沓に出てから、私は須山に追いついた。彼は鼻をこすりながら、何気ない風に四囲《まわり》を見廻わし、それから、
「どうもおかしいんだ……」
と云う。
 私は須山の口元を見た。
「上田がヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]と切れたんだ……!」
「何時《いつ》だ?」
 私が云った。
「昨日。」
 ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]は「予備線」など取って置く必要のない男だとは分っていたが、
「予備はあったのか?」と訊《き》いた。
「取っていたそうだ。」
 彼の話によると、昨日の連絡は殊《こと》の外重要な用事があり、それは一日遅れるかどうかで大変な手違いとなるので、S川とM町とA橋この三つの電車停留所の間の街頭を使い、それもその前日二人で同じ場所を歩いて「此処《ここ》から此処まで」と決め、めずらしいことにはヒゲは更に「万一のことがあったら困る」というので、通りがかりに自分から[#「自分から」に傍点]安全そうな喫茶店を決め、街頭で会えなかったら二十分後に其処《そこ》にしようと云い、しかも別れる時お互の時計を合わせたそうである。「ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]」そう呼ばれているこの同志は私達の一番上のポストにいる重要なキャップだった。今\迄《まで》ほゞ千回の連絡をとったうち、(それが全部街頭ばかりだったが)自分から遅れたのはたった二回という同志だった。我々のような仕事をしている以上それは当然のことではあるが、そういう男はそんなにザラには居なかった。しかもその二回というのが、一度は両方に思い違いがあったからで、時間はやっぱり正確に出掛けて行っているのである。モウ一度はその日の午後になってから時計に故障があったことを知らなかったからであった。他のものならば一度位来ないとしても、それ程ではなかったが、ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]が来ない、予備にまで来ないという事は私達には全《まっ》たく信ぜられなかった。
「今日はどうなんだ?」
「ウ
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