ン、昨日と同じ処《ところ》を繰りかえすことになってるんだって。」
「何時だ。」
「七時――それに喫茶店が七時二十分。で俺はとにかくその様子が心配だから、八時半に上田と会うことにして置いた。」
私は今晩の自分の時間を数えてみて、
「じゃ、オレと九時会ってくれ。」
私達はそこで場所を決めて別れた。別れ際に須山は「ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]がやられたら、俺も自首[#「自首」に傍点]して出るよ!」と云った。それは勿論《もちろん》冗談だったが、妙に実感があった。私は「馬鹿」と云った。が彼のそう云った気持ちは自分にもヨク分った。――ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]はそれほど私達の仲間では信頼され、力とされていたのである。私達にとっては謂《い》わば燈台みたいな奴だと云っても、それは少しも大げさな云い方ではなかった。事実ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]がいなくなったとすれば、第一次の日からして私達は仕事をドウやって行けばいゝか全く心細かった。勿論《もちろん》そうなればなったで、やって行けるものではあるが。――私は歩きながら、彼が捕《つか》まらないでいてくれゝばいゝと心から思った。
私は途中小さいお菓子屋に寄って、森永のキャラメルを一つ買った。それを持ってやってくると、下宿の男の子供は、近所の子供たちと一緒に自働式のお菓子の出る機械の前に立っていた。一銭を入れて、ハンドルを押すとベース・ボールの塁に球が飛んでゆく。球の入る塁によって、下の穴から出てくるお菓子がちがった。最近こんな機械が流行《はや》り出し、街のどの機械の前にも沢山子供が群がっていた。どの子供も眼を据《す》え、口を懸命に歪《ゆが》めて、ハンドルを押している。一銭で一銭以上のものが手に入るかも知れないのだ。
私はポケットをジャラ/\させて、一銭銅貨を二枚下宿の子供にやった。子供は始めはちょっと手を引ッ込めたが、急に顔一杯の喜びをあらわした。察するところ、下宿の子は今迄《いままで》他の子供がやるのを後から見てばかりいたらしかった。私はさっき買ってきたキャラメルも子供のポケットにねじこんで帰ってきた。
私は八時までに、今日工場で起ったことを原稿にして、明日撒《ま》くビラに使うために間に合わせなければならなかった。それを八時に会うSに渡すことになっている。私は押し入れの中から色々な文書の入っているトランクを持ち出して、鍵《かぎ》を外した。――「倉田工業」は二百人ばかりの金属工場だったが、戦争が始まってから六百人もの臨時工を募集した。私や須山や伊藤(女の同志)などはその時他人《ひと》の履歴書を持って入り込んだのである。二百人の本《ほん》工のところへ六百人もの臨時工を取る位だから、どんなに仕事が殺到していたか分る。倉田工業は戦争が始まってからは、今迄の電線を作るのをやめて、毒瓦斯《ガス》のマスクとパラシュートと飛行船の側《がわ》を作り始めた。が最近その仕事が一段落をつげたので、六百人の臨時工のうち四百人ほどが首になるらしかった。それで此頃の工場では、話がそのことで持ち切っていた。皆が「首になる」「首になる」と云うと、会社では「臨時工に首なんかモト/\ある筈《はず》がない。かえって最初の約束よりは半月以上も長く使ってやっているじゃないか」と云った。事実約束よりも半月以上も長く働きは働いたが、切《せ》ッぱつまった仕事ばかりなのでその間《かん》の仕事はとても無理なのだ。女工などは朝の八時から夜の九時まで打《ぶ》ッ通し夜業をして一円〇八銭にしかならなかった。夜の六時から九時までは一時間八銭で、しかも晩飯を食う二十分から三十分までの時間を、会社は夜業の賃銀から二銭\或《ある》いは三銭(わざ/\計算をして)差引いてさえいた。――飯を食っていたとき、私は云った「すると、会社は職工というものが飯を食わないで働かせることの出来るものだッて風に考えているんだネ。」一緒に働いていた臨時工の一人が「あゝ、そうだ……」と云った。その「あゝ、そうだ」がよく出来ている[#「よく出来ている」に傍点]というので、皆は笑った。会社は毎日の賃銀の支払に、四百人近くいる女工に一々その端数の八銭を、五銭一枚に一銭銅貨を三枚ずつつけて払った。それは大変な手間だったのだ。六時に退けても、そのために七時にさえなった。「糞《くそ》いま/\しい! 八銭を十銭にしたら、どの位手間が省けるか知れねえんだ。何んならこッちから負《ま》けて、八銭を五銭にしてやらア。」皆は列のなかでジレ/\して騒いだ。「金持の根性ッて、俺達に想像も出来ねえ位執念深いものらしい!」
ところが、臨時工の首切りの時に会社が一人宛《あて》十円ずつ出すという噂《うわ》さが立っていた。臨時工だから別に一銭も出さなくてもいゝ約束だが、皆がよく働いてくれたからというのが其《そ》の理由らしかっ
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