が出来る。だから私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲であると考えている。
 だが、笠原にはそのことが矢張り身に沁《し》みて分らなかったし、それに悪いことには何もかも「私の犠牲」という風に考えていたのだ。「あなたは偉い人だから、私のような馬鹿が犠牲になるのは当り前だ!」――然し私は全部の個人生活というものを持たない「私」である。とすればその「私」の犠牲になるということは何を意味するか、ハッキリしたことだ。私の組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽《あ》く迄《まで》も行って行くように義務づけられている。その意味で、私は私を最も貴重にしなければならないのだ。私が偉いからでも、私が英雄だからでもない。――個人生活しか知らない笠原は、だから他人《ひと》をも個人的尺度でしか理解出来ない。
 私はこのことをよく笠原に話した、彼女は黙ってきいていた。が、その日はそれから一言も云わずに、彼女は早く寝てしまった。



 夜、「マスク」の原稿を書いたり、地方の「オル」に出す報告を整理したり、それに配布の方から廻ってきて、少し停滞しているパンフレットや資料を読んで遅くなったので、次の朝十時頃まで寝ていた。――私は、下に誰か訪ねてきたりするのには、自分でも驚くほど敏感だった。私はそれで「ハッ!」として眼がさめたらしい。頭をあげると、矢張り巡査だった。戸籍しらべに来ている。私はこういう時に自分が引張り出されないようにと、前から原籍や氏名などを書いて、おばさんに渡してあった。巡査は細々と、しつこく訊《き》いていた。おばさん一家のことも、まるで犯罪でも調らべるようにきいている。これはどうも様子がおかしいなという予感が来た。私は耳をすましながら、書類の入っているトランクに鍵を下ろして、音がしないように着換をはじめた。――「間借は?」ときいている。「ハ、居ます。」……おばさんは茶の間に戻ってきて、私の書いた紙片を渡したらしい。
「これにはこの前にいたところが書いてないね。」……「夫婦かね?」とか、「何時籍が入ったのか、それとも籍が入ってないのかも、これじゃハッキリしていない。」おばさんが何か云っている。「夫の方は勤めてないのか?」……「今、居るの?」――私は来たな、と思った。「今出ています。」おばさんの云うのが聞えた。私はホッとすると同時に、やっぱり有り金をたゝいて間代だけは払って置いて良かったと思った。「じゃ、後でモウ少し詳しく聞いておいて、な。」と、巡査が云って帰りかけたらしい。私はやれ/\と思って、又\蒲団《ふとん》の上に腰を下したとき、戸をあけながら巡査の声がした、「この頃、赤がよく間借りをしているから、気をつけてもらわんと……。」私はギクッとした。おばさんは「ハア?」と云《い》って訊きかえしている。巡査はそれに二言三言云ったらしかった。おばさんには「赤」というのが何んであるか分らなかったのだろう。
 私はこういう調べ方のうちに、只事《ただごと》ならぬものを感じた。その日、連絡から帰ってくると、隣りの町で巡査が戸籍名簿をもって小さい店家に寄っていた。ところが、そこから一町と来ないうちに、同じ町なのに今度は二人の巡査が戸籍名簿をもって小路から出てきた。私はSに会ったとき、朝の戸籍調べのことを話したら、全市を挙げて虱《しらみ》つぶしに素人下宿の調査をしているらしいから気を付けないといけないと云った。私はこの物々しい調べ方にそれを感じた。
 彼奴等は今まで何べんも党は壊滅したとか、根こそぎになったとか云ってきた。それを自分たちの持っている大きな新聞にデカ/\と取り上げて、何も知らない労働者にそのことを信じこませ、大衆から党の影響を切り離すことにムキになってきた。ところが、そんなことをデカ/\と書いた直ぐ後から、到《いた》る処で党が活動している。それはどう誤魔化《ごまか》しようにも誤魔化しがきかなかった。殊《こと》にこの戦争の時期に「メーデー」とか、八月一日の「国際反戦デー」というような大きなカンパを前にして、彼奴等はどうでもこうでも党の力を根こそぎにしなければならなかった。彼等はそのために全力を彼等の持っているあらゆる国家権力を総動員している。口では党を侮《あなど》ったり、デマを飛ばしたり見縊《みくび》っているが、この事実こそは明かにそれを裏切って、党が彼奴等の最大の敵であることを示している。外国のある記事には、日本の党のことを「小さくして戦闘的な党」と書いているそうだが、(Sは須山の「神田伯山」とちがって、こういうことをよく知っていた)彼はそのことを私に話したとき、「この小さくして戦闘的な党は、一国の国家権力と対等に[#「対等に」に傍点]、否対等以上に対立
前へ 次へ
全36ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング