あお》くなっているらしかった。そして一度会えないものかどうか、ときいたというのだ。
 私はフト「渡政《わたまさ》」のことを思い出した。渡政が「潜ぐ」ったとき、彼のお母さんは(このお母さんはいま渡政ばかりでなく、全プロレタリアートのお母さんでもあるが)「政とはモウ会えないのだろうか」と同志の人にきいた。同志の人たちは「会えないのだ」ということをお母さんに云ったそうである。で、私はそのことを須山に云った。
「それは分かるが、君の居所を知らせるわけでなし、一度位何処《どこ》かで会ってやれよ。」
 実際に私の母親の様子を見てきた須山は、それにつまされ[#「つまされ」に傍点]ていた。
「が、それでなくても彼奴等は俺を探しているのだから、万一のことがあるとな。」
 が、とう/\須山に説き伏せられた。充分に気をつけることにして、何時も私達の使わない地区の場所を決め、自動車で須山に連れて来てもらうことにした。時間に、私はその小さい料理屋へ出掛けて行った。母親はテーブルの向う側に、その縁《ふち》から離れてチョコンと坐っていた。浮かない顔をしていた。見ると、母はよそ行きの一番いゝ着物を着ていた。それが何んだか私の胸にきた。
 私たちはそんなにしゃべらなかった。母はテーブルの下から風呂敷包みを取って、バナゝとビワと、それに又「うで卵」を出した。須山は直ぐ帰った。その時母は無理矢理に卵とバナゝを彼の手に握らしてやった。
 少し時間が経つと、母も少しずつしゃべりだした。「家にいたときよりも、顔が少し肥えたようで安心だ」と云った。母はこの頃では殆《ほと》んど毎日のように、私が痩《や》せ衰《おとろ》えた姿の夢や、警察につかまって、そこで「せっかん」(母は拷問のことをそう云っていた)されている夢ばかり見て、眼を覚ますと云った。
 母は又茨城にいる娘の夫が、これから何んとか面倒を見てくれるそうだから安心してやったらいゝと云った。話がそんなことになったので、私は今迄須山を通して伝えてもらっていた事を、私の口から改めて話した。「分っている」と、母は少し笑って云った。
 私はそれを中途で気付いたのだが、母親は何だか落着かなかった。何処か浮腰で話も終《しま》いまで、しんみり出来なかった。――母はとう/\云った、お前に会う迄は居ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時にお前が捕かまるんじゃないかと思って、気が気でない、それでモウそろ/\帰ろうと云うのだった。道理で母は時々別なテーブルにお客さんが入ってくると、その方を見て、「あのお客さんは大丈夫らしい」とか、又別な人が入ってくると、「あの人は人相が悪い」とか云っていた。私がかえって知らずに家《うち》にいた時のような声でものをしゃべると、母がもう少し低くするように注意した。母は、会っていて、こんなに心配するよりは、会わないでいて、お前が丈夫で働いているということが分っていた方がずッといゝと云った。
 母は帰りがけに、自分は今六十だが八十まで、これから二十年生きる心積《つも》りだ、が今六十だから明日にも死ぬことがあるかも知れない、が死んだということが分れば矢張りひょっとお前が自家《うち》へ来ないとも限らない、そうすれば危いから死んだということは知らせないことにしたよ、と云った。死目に遭《あ》うとか遭わぬとかいうことは、世の普通の人にとってはこれ以上の大きな問題はないかも知れぬ。しかも六十の母親にとっては。母がこれだけのことを決心してくれたことには、私は身が引きしまるような激動を感じた。私は黙っていた。黙っていることしか出来なかった。
 外へ出ると、母は私の後から、もう独《ひと》りで帰れるからお前は用心をして戻ってくれと云った。それから、急に心配な声で、
「どうもお前の肩にくせがある……」
と云った。「知っている人なら後からでも直ぐお前と分る。肩を振らないように歩く癖をつけないとね……」
「あ、みんなにそう云われてるんだよ。」
「そうだろう。直ぐ分る!」
 母は別れるまで、独り言のように、何べんも「直ぐ分る」を云っていた。

 私はこれで今迄に残されていた最後の個人的生活の退路――肉親との関係を断ち切ってしまった。これから何年目かに来る新しい世の中にならない限り(私たちはそのために闘っているのだが)、私は母と一緒に暮らすことがないだろう。

 その頃ヒゲからレポが入った。
 ヒゲは始めT署に五日ばかりいて、それからK署に廻わされ、そこで二十九日つけられた。須山や伊藤たちの出入りしているTのところへ、彼と檻房《かんぼう》が一緒だった朝鮮の労働者がレポを持ってきたので、始めて分った。レポには、自分はアジトでやられたこと、然しその理由はどうしても見当がつかないこと、陣営を建て直すのに決して焦ったり[
前へ 次へ
全36ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング