何故《なぜ》今迄通り、警察に素直に捕まらないのかが分らなかった。逃げ廻っていたら、後が悪いだろうと心配していた。
 私は今迄母親にはつら過ぎたかも知れなかったが、結局は私の退《の》ッぴきならぬ行動で示してきた。然し六十の母親が私の気持にまで近付いていることに、私は自分たちがこの運動をしてゆく困難さの百倍もの苦しい心の闘いを見ることが出来る気がする。私の母親は水呑《みずのみ》百姓で、小学校にさえ行っていない。ところが私が家にいた頃から、「いろは」を習らい始めた。眼鏡をかけて炬燵《こたつ》の中に背中を円るくして入り、その上に小さい板を置いて、私の原稿用紙の書き散らしを集め、その裏に鉛筆で稽古《けいこ》をし出した。何を始めるんだ、と私は笑っていた。母は一昨年私が刑務所にいるときに、自分が一字も字が書けないために、私に手紙を一本も出せなかったことを「そればかりが残念だ」と云っていたことがあった。それに私が出てからも、ます/\運動のなかに深入りしているのが、母の眼にも分った、そうすれば今度もキット引ッ張られるだろう、又仮りにそんなことが無いとしても、今は保釈になっているのだから、どうせ刑が決まれば入るのだから、その時の用意に母は字を覚え出しているのだった。私が沈む[#「沈む」に傍点]少し前には、不揃《ふぞろ》いな大きな字だったが、それでもちアんと読める字を書いているのに私は吃驚《びっくり》した。――ところが、母親は須山に「会えないだろうか?」と訊《き》いて、さア会わない方がいゝでしょう、と云われると、「手紙も出せないでしょうねえ」と云ったそうである。私はそれを須山から聞いたとき、そう云ったときの母親の気持ちがジカに胸に来て弱った。
 須山が帰るときに、母親は袷《あわせ》や襦袢《じゅばん》や猿又や足袋《たび》を渡し、それから彼に帰るのを少し待って貰って、台所の方へ行った。暫《しば》らく其処《そこ》でコト/\させていたが、何をしているのだろうと思っていると、卵を五つばかりゆで[#「ゆで」に傍点]ゝ持ってきた。そして卵は十銭に三つも四つもするのだから、新しいのを選んで必ず飲むように云ってくれと頼まれた。私はその「うで卵」を須山や伊藤などゝ食った。「な、伊藤、俺等一つでやめよう。後でおふくろにうらまれると困るから」と須山は笑った。伊藤は分からないように眼を拭《ふ》いていた。
 その後須山が私の家に寄るときに、私は四年でも五年でも帰られないことをハッキリ云ってもらうことにした。そして私を帰られないようにしているのは、私が運動をしているからではなくて、金持ちの手先の警察なのだから。私をうらむのではなくて、この倒《さかさ》になっている社会をうらまなくてはならない事を云ってもらうことにした。うやむやのことより、ハッキリしたことが分らせれば、かえってそこに抵抗力が出てくる。それに、私の知っている仲間が警察につかまって、それが共産党に関係があると云われると、残された家族の妻とか母親とかゞ、私の夫とか息子にはそんな「暗い陰[#「暗い陰」に傍点]」が無いとか、「罪にひッかけようとして」共産党だなどゝ有りもしない事実を云っているのだとか、そんなことを云っていたものがあった。だが若《も》しもそうだとすれば、共産党というものは「暗い影」であり、又共産党なら罪にひッかけてもいゝのだということを、これらの仲間の残された人たちが自分の口から云っていることになる。私は、六十の母親だが、私の母親がそれと同じように考え或《ある》いは云ったりしてはならないと思った。私の母親はその過去五十年以上の生涯を貧困のドン底で生活してきている。ハッキリ伝えれば、理解出来ると思ったのである。
 須山によると、私の母はそれを黙って聞いていたそうである。そしてそれとは別に、自分は今六十だし、病気でもすれば今日明日にも死ぬかも知れないが、そんな時は一寸《ちょっと》でも帰って来れるのだろうか、ときいた。須山はそんなことは予期もしていなかったので、どう答えていゝか分らなかった。私は後で、そういう時でも帰れないのだ、ということを云ってやった。
「オラそんなこと云えないや!」
と、須山が困った顔をした。
 私はこれらのことが母親には残酷であるとは思わぬでもなかったが、然し仕方のないことであるし、それらすべての事によって、母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だと考えた。それで私は念を押して、私が母の死目に会わないようなことがあるのも、それはみんな支配階級がそうさせているのだということを繰りかえすことを頼んだ。――だが、さすがにその日私は須山と会う時には、胸が騒いだ。
「どうだった?」
と訊いた。
「こう云ってたよ――」
 私の母はこの頃少し痩せ、顔が蒼《
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