は然し何も云わなかった。私はしばらくして返事をうながした。が黙っている。彼女はその日とう/\何も云わないで、帰ってしまった。
その次に会うと、笠原は私の前に今迄になくチョコナンと坐っているように見えた。それは如何《いか》にもチョコナンとしていた。肩をつぼめて、両手を膝の上に置き、身体を固くしていた。彼女の下宿に泊った次の朝、下宿から一歩出たとき、「あ――あ、よかった畜生め!」と男のような明るさで叫んだ女らしさが何処にも見えなかった。私はそれを不思議に眺《なが》めた。
私達は色々と用事の話をした。その話が途切れると、女はモジ/\した。二人ともこの前の話を避け、それを後へ後へと残して云った。用事が済んでから、私はとう/\云った。――彼女は自分の決心をきめて来ていたのだった。
私は笠原はその後直ぐ一緒に新しい下宿に移った。そこは倉田工業から少し離れていたが、須山や伊藤は電車でも歩ける「身分」なので、こっちへ出掛けて来てもらった。それで交通費を節約し、道中の危険を少なくすることが出来た。
四
須山はそっちの方に用事があると、時々私の母親のところへ寄った。そして私の元気なことを云い、又母親のことを私に伝えてくれた。
私は自分の家を出るときには、それが突然だったので、一人の母親にもその事情を云《い》い得ずに潜《も》ぐらざるを得なかったのである。その日は夜の六時頃、私は何時《いつ》ものレンラクに出た。私は非合法の仕事はしていたが、ダラ幹の組合員の一人として広汎《こうはん》な合法的場面で、反対派として立ち働いていたのである。ところが六時に会ったその同志は、私と一緒に働いていたFが突然やられたこと、まだその原因はハッキリしていないが、直接それとつながっている君は即刻もぐらなければならないことを云った。私は一寸呆然《ちょっとぼうぜん》とした。Fの関係で私のことが分るとすれば、それは単にダラ幹組合の革命的反対派としてゞは済まない。オヤジの関係になるのだ。私は一度家に帰って始末するものはして、用意をしてもぐろうと思い、そう云った。それだけの余裕はあると思った。するとその同志は(それがヒゲだったのだが)
「冗談も休み休みに云うもんだ。」
と、冗談のように云いながら、然《しか》し断じて家へは帰ってならないこと、始末するものは別な人を使ってやること、着のみ着のまゝでも仕方がないことを云った。「修学旅行ではないからな」と笑った。ヒゲは最も断乎《だんこ》としたことを、人なつこさと、一緒に云い得る少数の人だった。彼は、もぐっている同志がとう/\行く処がなくなって、「今晩はよもや大丈夫だろう」と云うので自分の家に帰り、その次の朝つかまった話や、大切なものを処分するために、張り込んでいる危険性が充分に[#「充分に」に傍点]考えられる理由があるにも拘《かかわ》らず、出掛けて行って捕かまったという例を話した。彼はあまり、どうしてはいかぬとは云わない。そんな時は、それに当てはまる例を話すだけだった。色々な経歴を経て来ているらしく、そんな話を豊富に知っていた。
私はヒゲから有り金の五円を借り、友達の夫婦の家に転げ込んだ。――ところが、次の朝やっぱり私の家へ本庁とS署のスパイが四人、私をつかむためにやってきたそうである。何も知らない母親は吃驚《びっくり》して、ゆうべ出てから未だ帰らないと云った。すると、その中で一番「偉そうな人」が風を喰《く》らって逃げたのかな、と云ったそうである。
私はそのまゝ帰らなかったのである。それで須山が私の消息を持って訪ねて行ったときは、あたかも自分の息子でも帰ってきたかのように家のなかにあげ、お茶を出して、そしてまずまじまじと顔を見た。それには弱ったと須山は頭を掻《か》いていた。彼は私が家を飛び出してからのことを話して、それが途切れたりすると、「それから? それから?」とうながされた。母親は今まで夜もろくに寝ていなかった、それで眼の下がハレぼッたくたるんで、頬《ほお》がげッそり落ち、見ていると頭がガク/\するのではないかと思われるほど、首が細くしなびていた。
終《しま》いに、母親は「もう何日したら安治は帰ってくるんだか?」と訊《き》いた。須山はこれには詰まってしまった。何日[#「何日」に傍点]? 然し今にもクラ/\しそうな細い首を見ると、彼はどうしても本当のことが云えず、「さア、そんなに長くないんでしょうな……」と云ってきたという。
私の母親は、勿論《もちろん》私が今迄《いままで》何べんも警察に引ッ張られ、二十九日を何度か留置場で暮すことには慣らされていたし、殊《こと》に一昨年は八カ月も刑務所に行っていた。母親はその間差入に通ってくれた。それで今ではそういうことではかえって私のしている仕事を理解していてくれているのである。たゞ
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