てあげようよ」伊藤ヨシは太田の事件を直ぐそんな風にとりあげて、金や品物を集めた。七人程がお金を出した。その中には太田を好きだという女もいた。ヨシは太田のことからビラの話をし、工場の仕事の話などから、とう/\八人ほどを仲間にすることに成功した。彼女は長い間の工場生活から、どんなことを取り上げると皆がついて来るか知っていた。それにパラシュートの方は殆んど女ばかりだったので、太田などはなか/\「評判」だった。彼女はそれをも巧みにつかんだのだ。彼女は八人のうちから積極的なのを選んで、「倉田工業内女工有志」という名を出して、警察に差入にやった。サルマタ、襦袢《じゅばん》、袷《あわせ》、帯、手拭《てぬぐい》、チリ紙、それに現金一円。警察では、その女をしばらく待たして置いてから、中《なか》で太田が志は有難いが、考える処あって貰えないと云っているから持って帰れと云った。慣れない女は仲間の四五人と一緒に、その差入物を持って帰ってきた。伊藤は自分が以前警察で、勝手にそんなカラクリをさせられた経験があるので、もう一度警察に行って、無理矢理に差入物を置かせて来た。――ところが、後で須山から太田のことを聞かせられて、彼女はカン/\に怒った。
太田などは、自分の心変りや卑屈さが、自分だけのこと[#「自分だけのこと」に傍点]ゝ考えてるのだろう。だが、それは沢山の労働者の上に大きな暗いかげを与えるものだと云うことを知らないのだ。彼奴は個人主義者で、敗北主義者で、そして裏切者だ。彼はそれに未だ警察に知れていない私の部署、その後の私の行動に就いてもしゃべっているのだ。とすれば、私がこれから倉田工業の仲間たちと仕事をして行くことは十倍も困難になってくるわけである。――私達はこうして、敵のパイ共からばかりでなく、味方うちの「腐った分子」によっても、十字火を浴びさせられる。その日交通費もあまり充分でなかったので、歩いて帰った。途中私の神経は異常に鋭敏になっていた。会う男毎にそれがスパイであるように見えた。私は何べんも後を振りかえった。太田の「申上げ」によって、彼奴等は私を捕かもうとして、この地区を厳重に見張りしていることは考えられるのだ。ヒゲの話によると、(前に話したことがあった)彼奴等は私達一人を捕かむと五十円から貰えるということだ。彼奴等はそのエサに釣《つ》られて、夢中になっているだろう。――だが、こういう落付かない時は、えて危いと思った。私はつかまってはならない。私は「しるこ屋」に入ってゆっくり休み、それから帰ってきた。
私達は退路というものを持っていない。私たちの全生涯はたゞ仕事にのみうずめられているのだ。それは合法的な生活をしているものとはちがう。そこへもってきて、このような裏切的な行為だ。私たちはそれに対しては全身の憤怒と憎悪を感じる。今では我々は私的生活というべきものを持っていないのだから、全生涯的感情[#「全生涯的感情」に傍点]をもって(若《も》しもこんな言葉が許されるとしたら)、憤怒《ふんぬ》し、憎悪するのだ。
私はムッとしていたらしい。下宿の出入りには、おばさんに何時もちアんと言葉をかけることになっていながら、私はそれも忘れ、二階に上がってしまった。
私は机の前に坐ると、
「畜生!」
と云った。
その後、私は笠原と急に親しくなった。私は自分でも妙なものだと思った。彼女は頼んだ用事を何くれとなく、きちんと足してくれた。太田の裏切から私は最近別な地区に移ることに決めたが、自分で家を探がして歩くわけにも行かなかったので、それを笠原に頼んだ。それと同時に私は笠原と一緒になることを考えてみた。非合法の仕事を確実に、永くやって行くためにも、それは都合がよかった。
下宿に男が一人でいて、それが何処にも勤めていなくて、しかも毎夜(夜になると)外出する――これこそ、それと疑われる要素を完全に揃《そろ》えていることになる。工場に勤めていた時は、そんな点はまあよかったが。殊に一晩のうちに平均して三つか四つ連絡があって、その間に一時間もブランクがある時には、外でウロウロしているわけにも行かず、一《ひと》まず家に帰ってくる。そして又出掛ける。そんな時、おばさんは現実に奇妙な顔をした。何をして食っているんだろう? おばさんの奇妙な顔はそう云っている。こういう状態だと、戸籍調べの巡査が来た時に、直ぐ見当をつけられてしまうおそれがあったのだ。
笠原は会社に勤めているので、朝一定の時間に出る。そうなれば私がブラ/\しているように見えても、細君の給料で生活しているということになる。世間は一定の勤めをもっている人しか信用しないのだ。――それで私は笠原に、一緒になってくれるかどうかを訊《き》いた。それを聞くと、彼女は又突然あの大きな(大きくした)眼で私の顔を見はった。彼女
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