ている人であったという例が沢山ある。が、下宿の主人の商売がすぐ分るのはよい方で時には一カ月も分らないまゝでいることさえある。「ご主人は何商売ですか」というこの単純な問いも、こっちがこっちだけに、仲々淡泊には訊《き》けないのだ。
 私はおばさんにお湯屋の場所をきいて、外へ出た。第二段の調査のためである。まず毎日出入りする道に当る家並の門礼を、石鹸《せっけん》とタオルを持った恰好《かっこう》で、ブラブラと見て歩いた。五六軒見て行くと、曲り角に「警視庁巡査――」の名札があった。然しそれは大きな邸宅の裏門に出ているので、大して心配が要らない。お湯屋から出ると、今度はその辺にある小路や抜け路を調らべて帰ってきた。一般にこの市は(他の市もそうかも知れないが)奇妙なことには、工場街と富豪の屋敷街がぴったりくっついて存在しているということである。今度のところも倉田工業のある同じ地区にも拘らず、ゴミ/\した通りから外《は》ずれた深閑とした住宅地になっていた。それにいいことには、しん閑とした長い一本道を行くと直ぐにぎやかな通りに続いていることで、用事を足して帰ってきても、つけ[#「つけ」に傍点]られているか居ないかが分ったし、家を出てしまえば直《す》ぐにぎやかな通りに紛ぎれ込んでしまえるので、案外条件が良かった。
 二階の私の室の窓は直ぐ「物干台」に続いていた。そして隣りの家の物干までには、一またぎでそこからは容易《たやす》く別な家の塀《へい》が越せることが分った。私はそれで草履《ぞうり》一足買ってきて、窓を開いたら直ぐ履けるように、物干台に置くことにした。たゞ困ったことは、この辺の家は「巴里《パリ》の屋根の下」のように立て込んでいるので、窓を少しでも開《ひら》くと、周囲の五六軒の家の人たちやその二階などを間借りしている人たちに顔を見られる危険性があった。それらの家の職業がハッキリするまで、私は四方を締め切って坐り込んでいなければならなかった。それで私は世間話をするために、下へ降りていった。世間話から近所の様子を引き出そうと思ったのである。
 聞いてみると法律事務所へ通っている事務員、三味線のお師匠さん、その二階の株屋の番頭さん、派出婦人会、其他七八軒の会社員、ピアノを備えつけている此の辺での金持の家などだった。下宿を決めた夜のうちに、隣近所のことがこれだけ分ったということは大成功である。或《ある》いは口喧《やか》ましい派出婦人会だけを除くと、まず周囲はいゝ方と云わなければなるまい。
 たゞ、今迄《いままで》の経験で、アジトを襲われたり、アジトに変なことがあったりしたら直ぐ出掛けて行ける宿所を作って置かなければならない。どんなに安全そうに見えても、それは少しも何時までもの安全を意味してはいない。事実、私はこの前の前の下宿で、移ってから二日目だというのに、お湯へ行って帰ってくると、下宿の前に洋服を着た男が立っているのだ。そこは一本道で、私はその男を発見したが、そこからは引ッ込みのつかないほど間近に来てしていた。私は仕方なしに、身体をフラ/\と振り、濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を眼につくように垂らし、ウロ覚えの「幻の影をしたいて、はるばると……」を口笛で吹いて、下宿には入らずに通り過ぎた。洋服の男は私の方を見たようだったが、その見方は張り込んでいる見方にしては、何処《どこ》か不審なところがあるように思われた。私は暫《しば》らく来てから振りかえってみた。が、男は未だ立って居り、こっちを見ている。私はその夜同志のところへ転げこんだ。その同志は経験のある同志で、第一にそんな張り込み方がないこと、第二に新しく移ってきて二三日もしないうちに、何等かの予備的調査もなくやってくるという事は有り得ないという判断から、次の日人を使って調らべたら、何んでもないことが分ったが。とにかく即刻やってくる災害に対して即刻に応じ得られる第二段の構をして置くことが常に必要である。私は次の連絡のとき、笠原にこのことを依頼した。

 仕事は直ぐ立ち直った。太田のあとは伊藤ヨシが最近メキ/\と積極的になったので、それを補充することにした。弾圧の強襲が吹き捲《まく》っているときに、積極性を示すものは仲々数少なかったのだ。彼女は高等程度の学校を出ていたが、長い間の《転々とはしていたが》工場生活を繰りかえしてきたために、そういう昔の匂いを何処にも持っていなかった。この女は非合法にされてからは、何時《いつ》でも工場に潜《も》ぐりこんでばかりいたので、何べんか捕《つ》かまった。それが彼女を鍛えた。潜ぐるとかえって街頭的になり、現実の労働者の生活の雰囲気から離れて行く型と、この伊藤は正反対を行ったのである。伊藤は警察に捕かまる度に母親が呼び出され引き渡されたが、半日もしないうちに又家を飛び出し潜ぐって
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