一段落付いたから。」
私は立ち上がって、あくびをした。
蒲団《ふとん》は一枚しか無かった。それで私は彼女が掛蒲団《かけぶとん》だけを私へ寄こすというのを無理に断って、丹前だけで横になった。電燈を消してから、女は室の隅の方へ行って、そこで寝巻に着換るらしかった。
私は今迄(自分の家を飛び出してから)色々な処を転々として歩いたので、こういう寝方には慣れていたし、直ぐ眠れた。然し女のところは初めてだった。さすがに寝つきが悪かった。私はウトウトすると夢を見て直《す》ぐ眼をさました。それが何べんも続いた。見る夢と云えば、追いかけられている夢ばかりだった。夢では大抵そうであるように、仲々思うように逃げられない。そして気だけが焦る。あ、あっ、あっ、あ、あ……と思うと、そこで眼が覚めた。ジッとしていると、頭の片方だけがズキン、ズキンと鈍くうずいた。私は殆んど寝たような気がしなかった。そして何べんも寝がえりを打った。――然し笠原は朝までたゞの一度も寝がえりを打たなかったし、少しでも身体を動かす音をさせなかったのである。私は、女が最初から朝まで寝ない心積《つも》りでいたことをハッキリとさとった。
それでも私は少しは寝たのだろう。眼をさますと、笠原の床はちゃんと上げられて、彼女は炊事で下に降りているのか、見えなかった。しばらくして、笠原は下から階段をきしませて上がってきた。そして「眠れた?」と訊《き》いた。「あ」と私は何だかまぶしく、それに答えた。
下宿は笠原の出勤時間に一緒に出た。下のおばアさんは台所にいたが、その時手を休めて私の後を見送った。
外に出るや否や、笠原は恰《あた》かも昨日からの心配事を一気に吐き出すように、
「あ――あ――」
と、大きな声を出した。それから「クソばゞア!」と、そッとつけ加えた。
三
その夜Sに会ったとき、昨夜のことを話すと、そいつは悪いと行って、間借の金を支度してくれた。私は家を見付けて置いたので、須山と伊藤に道具を揃《そろ》えてもらって、直《す》ぐ引き移ることにした。はじめ倉田工業と同じ地区にするのが良いか悪いかで随分迷った。同じ地区だと可成り危険性がある。然《しか》し他の地区ということになれば交通費の関係上困った。こんな場合は勿論《もちろん》他の地区の方が良かったが、然し警察は案外私が他の地区に逃げこんだと思っているかも知れない。だから彼奴等の裏をかいて、同じ地区にいるのも悪くないと思った。嘗《か》つてこんな事がある。今ロシアに行っている同志のことであるが、その同志は他の同志が江東方面で活動している時は反対の城西方面に出没しているという噂《うわ》さを立てさせる戦術をとっているという話を聞くと、そいつは拙《まず》い、俺ならば江東にいる時には、かえって江東にいるという噂さを立てさせると云ったそうだ。私はこの地区ではまだ具体的にはスパイに顔を知られていなかった、それに工場もやめたので経済的な根拠から同じ地区に下宿を決めることにした。
下宿はどっちかと云《い》えば、小商人の二階などが良かった。殊《こと》にそれが老人夫婦であれば尚《なお》よかった。その人たちは私たちの仕事に縁遠いし、二階の人の行動には、その理解に限度がある。なまじっか知識階級の家などは、出入や室の中を一眼見ただけでも、其処《そこ》に「世の常の人」らしからぬ空気を敏感に感じてしまうからである。然し、警察どもは小商人などのところへは度々《たびたび》戸籍調らべにやって来て、無遠慮な調らべ方をして行く代りに、門構でもあるような家には二度のところを一度にし、それもたゞ「変ったことがありませんか」位にとゞめる。――今度の下宿はその中間をゆく家だった。おばさんはもと待合をしていたことがあるとか云って、誰かの妾《めかけ》をしているらしかった。
須山や伊藤から荷物を一通り集めて、ようやく落付くと私はホッとした。たゞ下の室に同宿の人がいるのが欠点だった。それで、第一にその人がどんな人か知る必要があった。私は便所へ降りて行った。同宿の人の室の障子が開いて居り、その人はいなかった。私は何より本箱[#「本箱」に傍点]に眼をやった。これは私が新しい下宿に行って、同宿のある時に取る第一の手段だった。本箱を見ると、その人が一体どういう人か直《す》ぐ見当がつくからである。――本箱には極く当り前の本ばかりが並んでいた。何処《どこ》かの学校の先生らしく、地理とか、歴史の本が多かった。ところが、机の上に「日本文学全集」が載っていた。フト見ると、「片岡鉄兵」や「葉山嘉樹《よしき》」などの巻頭の写真のところが展《ひろ》げられたまゝになっていた。然しその種の本はそれ一冊だけで、その他には持っていないらしかった。
僕たちの仲間で、折角移ってきたところが、その下宿の主人が警察に勤め
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