、イラ/\した。ただ、私には今迄一二度逃げ場所の交渉をして貰った女がいた。その女は私が頼むと必ずそれをやってくれた。女はある商店《みせや》の三階に間借りして、小さい商会に勤めていた。左翼の運動に好意は持っていたが別に自分では積極的にやっているわけではなかった。女の住所は知っていたが、女一人のところへ訪ねていくのも変であったので、私は今迄用事の時は商会に電話をかけて、それで済ましていた。が私には今その女しか残されていない、そんなことを考慮してはいられなかった。――私はS町で円タクを捨てると、覚悟を決め、市電に乗った。
成るべく隅の方へ腰を下して、膝の上に両手を置いた。それから気付かれないように電車の中を一通り見渡してみた。幸いにも「変な奴」はいない。私の隣りでは銀行員らしい洋服が「東京朝日」を読んでいた。見ると、その第二面の中段に「倉田工業の赤い分子検挙」という見出しのあるのに気付いた。何べんも眼をやったが、本文は読めなかった。――それにしても、電車というものののろさ[#「のろさ」に傍点]を私は初めて感じた。それは居ても立ってもいられない気持だ。
用心のために停留所を二つ手前で降り、小路に入って二三度折れ曲がり、女のところへ行った。初めてではありそれに小路に入ったりしたので少し迷った。店先にはお爺《じい》さんが膏薬《こうやく》の貼《は》った肩を出して、そこを自分の手でたゝいていた。上の笠原さんがいますか、と訊《き》くと、私の顔を見て黙っている。二度目に少し大きな声を出した。すると、障子のはまった茶の間の方を向いて何か分からないことを云った。誰か腰の硝子からこっちを覗《のぞ》いた。
「さア、出て行きましたよ」
内《うち》でうさん臭く云った。
私は、ハタと困ってしまった。何時《いつ》頃かえるのでしょうかと訊くと、そんな事は分らんと云う。私の人相《身装》を見ているなと思った。どうにも出来ず、私はそこに立っていた。然し仕様がなかった。私は九時頃に又訪ねてみると云って外へ出た。出てから三階を見上げると、電燈が消えている。私は急にがっかりした。
夜店のある通りに出て本を読んでみたり、インチキ碁の前に立ってみたり、それから喫茶店に入って、二時間という時間をようやくつぶして戻ってきた。角を曲がると、三階の窓が明るくなっていた。
私は笠原に簡単に事情を話して、何処《どこ》か家が無いかと訊《き》いた。然《しか》し今迄彼女はもう殆《ほと》んど知っている家は、私のために使ってしまっていた。商会の女の友達も二三人はいるが、それはこッちの運動のことなど少しも分っていないし、「それにみんなまだ独り[#「独り」に傍点]」だった。笠原はしきりに頭を傾《かし》げて考えていたが、矢張り無かった。時計を見ると十時近い。十時過ぎてから外をウロつくのは危険この上もなかった。それに私はまだナッパ服のまゝなので、一層危険だった。女の友達なら沢山頼めるところがあるのだが、「君、男だから弱る」と笠原は笑った。私も弱った。然しいずれにしろ私は捕まってはならないとすればたった一つのことが残されていた。それを云い出すには元気が必要だったが。
「こゝ[#「こゝ」に傍点]は、どうだろう……?」
私は思いきって云い出したが、自分で赤くなり、吃《ども》った。――人には大胆に見えるだろうが、仕方がなかった。
「…………!」
笠原は私の顔を急に大きな(大きくなった)眼で見はり、一寸《ちょっと》息を飲んだ。それから赤くなり、何故《なぜ》かあわてたように今迄横座りになっていた膝《ひざ》を坐り直した。
しばらくして彼女は覚悟を決め、下へ降りて行った。S町にいる兄が来たので、泊って行くからとことわって来た。だが、兄というのはどう考えても可笑《おか》しかった。彼女は簡素だが、何時でもキチンとした服装をしていて、髪は半[#「半」に傍点]断髪《?》だった。そこにナッパを着た兄でもなかった。彼女がそう云うと、下のおばさんは子供ッぽい笠原の上から下を、ものも云わないで見たそうである。彼女はさすがに固い、緊張した顔をしていた。普通の女にとってたゞ男が泊《とま》るということでも、それは只事《ただごと》ではなかったのであろう。
そういう風に話が決まると、二人とも何んだか急にぎこちなくなり、話が途切《とぎ》れてしまった。私は鉛筆と紙を借り、次の日のプランを立てるために腹ン這《ば》いになった。即刻太田の補充をすること、太田の検挙のことをビラに書いれて倉田工業の全従業員に訴えること。私は原稿を鉛筆を嘗《な》め/\書いた。フト気付くと、女が自分から「もう寝ましょう」と云えないでいることに気付いた。それで、
「君何時に寝るんだい?」
と訊いてみた。
すると「大抵今頃……」と云った。
「じゃ寝ようか。僕の仕事も
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