つ[#「あいつ」に傍点]《前に捕まった仲間》がしゃべったからだ、一体一言でも彼奴等《きゃつら》の前でしゃべるなんて「君、統制上の問題だぜ!」と云いかえした。事実その同志は取調べに対しては一言もしゃべらなかった。その同志にとってはしゃべるという事は始めから考え得られないことだったし従って[#「従って」に傍点]他のものもしゃべるなどとは考えもしなかったので、「のんべんだらり」とアジトにいたのだ。私はこの時誰よりも一番痛いところをつかれたと感じた。アジトを逃げろと云ったのは、自分が[#「自分が」に傍点]若《も》し捕まったら三日か四日目にアジトを吐くという、敗北主義を自認していることになる。だが、これはおよそボルシェヴィキとは無縁な態度である。これはABCだ。その後私たちはその同志の態度を尺度とする規約を自分自身に義務づけることにした。が今あの頼りない太田を前にしては、私はこの良き意味での「のんべんだらり」をアジトで極め込んでいるわけには行かぬ。私は即刻下宿を引き移らなければならなかった。
それにしても、私は矢張りアジトは誰にも知らせない方がよかった。嘗《か》つて、私たちの優れた同志が「七人」もの人に自分の家を知らせ、出入りさせていた。その中には同志ばかりか単なる「シンパ」さえいた。そのためにその優れた同志はアジトを襲われた。――そんな例がある。私たちは世界一の完備を誇っている警察網の追及のなかで仕事を行っていることを何時でも念頭に置かなければならぬ。
たゞ良かったことは、須山と伊藤ヨシのことを太田が知っていなかったことだ。私は仕事をうまく運ぶために彼に、二人が我々の信用していい仲間であることを知らせようと思ったことがあった。然《しか》しその時自分は後のことを考え、やめたのである。一つは弾圧の波及を一定限度で防ぐためであり、他は単に誰々がメンバーであるという慣れあいによって仕事をして行こうとする危険な便宜主義に気付いたからだった。
工場の帰りに私は須山と伊藤ヨシと一緒になり、緊急に「しるこ屋」で相談した。その結果、私は直ちに(今夜のうちに)下宿を移ること、工場は様子がハッキリする迄休むこと、残った同志との連絡をヨリ緊密にし、二段三段の構えをとることに決まった。「今日はまだ大丈夫だろう」とか、「まさか[#「まさか」に傍点]そんな事はあるまい」というので今迄に失敗した沢山の同志がある。以上の三つの事項は「工場細胞」の決定[#「決定」に傍点]として私が必ず実行することに申し合わせた。そして伊藤と須山は貰《もら》って来たばかりの日給から須山は八十銭、伊藤は五十銭私のために出してくれた。
須山は何時もの彼の癖で、何を考えたのか神田伯山の話を知っているかと私に訊いた。私は笑って、又始まったなと云った。彼の話によると、神田伯山は何時でも腹巻きに現金で百円はどんな事があろうと手つかずに(死ぬ迄)持っていたというのである。それは彼が、人間は何時どんな処で災難に打ち当らないものとは限らない、その時金を持っていないばかりに男として飛んでもない恥を受けたら大変だと考えていたからだそうである。
「同じことだ、金が無くて充分の身動きが出来ないために捕まったとなれば、それは階級的裏切だからな!」
そう云って、彼は「我々は彼等の[#「彼等の」に傍点]経験からも教訓を引き出すことを学ばなくてはならないんだ」と、つけ加えた。私と伊藤は、そういうことを色々と知っている須山の頭は「スクラップ・ブック(切抜帖)」みたいだというので笑った。
私は実にウカツに私の下宿に入る小路の角を曲がった。だが本当はウカツでもなんでもなかったのだろう。私は第一こんなに早く太田が私の家《アド》を吐こうなどとは考えもだに及ばなかったからである。私はギョッとして立ちすくんだ。二階の私の室には電燈がついている! そしてその室には少なくとも一人以上の人の気配のあることが直感として来た。張り込まれていることは疑うべくもなかった。だが、室の中には色々と持ち出したいものがある。次の日から直ぐ差支えるものさえあった。――私は然しこの「だが[#「だが」に傍点]」がいけないと、直ぐ思いかえした。
私には今直《す》ぐと云えば、行く処はなかった。今迄の転々とした生活で、知り合いの家という家は殆《ほと》んど使い尽してしまっていたし、そういう処は最早二度の役には立たなかった。私はまず何よりこの地域を離れる必要があるので、電車路に出ると、四囲を注意してから円タクを拾った。別に当ての無い処だったが、
「S町まで二十銭。」
と云った。
その時フト気付いたのだが、私は工場からの帰りそのまゝだったので、およそ円タクには不調和な服装をしていた。――私は円タクの中で考えてみた。が、矢張り見当がつかない。私は焦《あせ》り
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