仕事を始めた。母親はその度に「今度は行ってお呉《く》れでないよ」と頼んだのだが。母親は、それで娘が捕かまったから出頭しろという警察の通知が来ると喜んだ。そして警察では何べんもお礼を云って帰ってきた。三度目か四度目に家に帰ったとき、伊藤は久し振りで母親と一緒に銭湯に行った。彼女はだん/″\仕事が重要になって行くし、これからは今迄のように容易《たやす》く警察を出れることも無くなるだろうというような考もあったのである。それは蔭ながらのお別れであったわけである。ところが母親はお湯屋で始めて自分の娘の裸の姿を見て、そこへヘナ/\と坐ってしまったそうである。伊藤の体は度《たび》重なる拷問で青黒いアザだらけになっていた。彼女の話によると、そのことがあってから、母親は急に自分の娘に同情し、理解を持つようになったというのである。「娘をこんなにした警察などに頭をさげる必要はいらん!」と怒った。その後、交通費や生活費に困り、仕方なく人を使って母親のところへ金を貰《もら》いに行くと、今迄は帰って来なければ「金は渡せん」といったのに、二円と云えば四円、五円と云えば七八円も渡してくれて、「家のことは心配しなくてもいゝ」と云うようになった。「ただ貧乏人のためにやっているというだけで、罪のない娘をあんなに殴ぐったりするなんてキット警察の方が悪いだろう」と母親は会う人毎《ごと》にそう云うようになっていた。――自分の母親ぐらいを同じ側に引きつけることが出来ないで、どうして工場の中で種々雑多な沢山の仲間を組織することが出来るものか。このことに多くの本当のことが含まっているとすれば、伊藤などはそ黷ナある。未組織をつかむ彼女のコツには、私は随分舌を巻いた。少しでも暇があると浅草のレビュウヘ行ったり、日本物の映画を見たり、プロレタリア小説などを読んでいた。そして彼女はそれを直ちに巧みに未組織をつかむときに話題を持ち出して利用する。(余談だが、彼女は人目をひくような綺麗《きれい》な顔をしているので、黙っていても男工たちが工場からの帰りに、彼女を誘って白木屋の分店や松坂屋へ連れて行って、色々のものを買ってくれた。彼女はそれをも極めて、落着いて、よく利用した。)
彼女は人の意見をよく聞く素直《すなお》な女だったが、自分の今迄何十ぺんという経験のふるい[#「ふるい」に傍点]を通して獲得してきた方法に対しては、石みたいに頑固だった。今このような女の同志は必要だった。殊に倉田工業の七〇%(八百人のうち)が女工なので、その意義が大きかったのだ。
私は倉田工業の他に「地方委員会」の仕事もしていたし、ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]のやられたことが殆《ほと》んど確実なので、新たにその仕事の一部分をも引き受けなければならなかった。急に忙がしくなった。が、アジトが確立した上に、工場の生活がなくなったので、充分に日常生活のプランを編成して、今迄よりも精力的に仕事に取りかかることが出来た。
工場にいたときは、工場のなかの毎日々々の「動き」が分り、それは直ぐ次の日のビラに反映させることが出来た。今その仕事は須山と伊藤が責任を引き受けてやっている。最初私は工場から離れた結果を恐れた。ところが、須山たちと密接な組織的連繋《れんけい》を保っていることによって、浮き上る処か、面白いことには逆に、離れてみて須山や伊藤や(そして今迄の私も)眼先だけのことに全部の注意を奪われていて、常にヨリ一歩発展的に物事を見ていなかったということが分るのである。非常に精細な見方をしているようで、実はある固定した枠《わく》内で蚤取眼《のみとりまなこ》を見張っていたと云える。勿論それは私がヨリ展望のきく「地方委員会」などの仕事をしているというところからも来ているが。従って、私は自分の浮き上りということを恐れる必要がないことが分った。
私がまず気付いたことは、八百人もいる工場で、四五人の細胞だけが[#「だけが」に傍点]懸命に(それは全く懸命に!)活動しようとしている傾向だった。それは勿論四五人であろうと、細胞の懸命な活動がなかったら、工場全体を動かすことの出来ないのは当然であるが、その四五人が懸命に働いて工場全体を動かすためには、工場の中の大衆的な組織と結合すること(或いはそういうものを作り、その中で働くこと)を具体的に問題にしなければならない。そのための実際の計画を考顧しなかったなら、矢張りこの四五人の、それだけで少しも発展性のない、独《ひと》り角力《ずもう》に終ってしまうのだ。――ところが、実際には臨時工の女工たちは、私達は折角知り合っても又散り/\バラ/\になってしまう。袖《そで》触れ合うも他生《たしょう》の縁というので、臨時工の「親睦会」のようなものを作ろうとしている。又臨時工と本工とが賃銀のことや待遇のことで仲が悪いのは
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