気付くと私は直ぐ須山のことを考えていた。だが、そんなに須山のことに立ち停《どま》っていることはよくないことなのだ。須山にしても、自分たちの置かれている情勢をハッキリと見ていれば、このことを一つの必然として、而かも不可欠のものとして理解することが出来る筈なのだ。そこに別の道或いは除けて通れる道が一つもなく、しかもプロレタリアートの解放のためにはどうしてもその道を通らなければならないとすれば、私たちはそこから何か仕事以外のもの、例えばこんな事をすることが「残酷なこと」ではないだろうかとか、又は「同情に堪えないこと」ではないだろうかとか、凡《およ》そそんなことが引き出せるわけがないのだ。
 だが、会合の場所に行くまで、私の頭にあの突拍子もない切抜帳《スクラップ》で私たちを笑わせる須山の顔が来て困った。
 場所は今まで三度位使ったことのある須山の昔の遊び(飲み)友達の家だった。足元の見えない土間で下駄を脱ぎ、それを懐に入れて、二階に上がって行くと、斜めに光が落ちて来て、須山の顔がのぞいた。
 伊藤は壁に倚《よ》りかゝって、横坐りに足をのばし、それを自分でもん[#「もん」に傍点]でいた。私が入って行くと、後れ毛を掻《か》き上げるようにして、下からチラと見た。私は「この前は!」と云った。彼女はそれには別に答えなかった。工場のオルグをやると、どうしても白粉ッ気が多くなるが、細胞の会合のときに伊藤は今まで一度も白粉気のある顔をしてきたことがなかった、又その必要もなかったので。フト見ると、ところが伊藤は今迄になく綺麗《きれい》な顔をしていた。
「同志伊藤は今男の本工を一人オルグしてのお帰りなんで――」
 と、須山は又すぐ茶目て、伊藤の顔を指さした。
 そんな時は何時もの伊藤で、黙っていた。が、彼女は何故《なぜ》か私の顔をその時見た。
 会が始まってから、私は何時もやることになっている須山の報告に特に注意した。彼はこの前の細胞会議の決定にもとづいて、職場々々に集会を持たせるように手配したが、工場の様子を見ていると、ここ二三日が決定的瞬間らしく、そのためには今至急何んとか[#「何んとか」に傍点]しなければならないと云った。
 伊藤はそれにつけ加えて、前に私に報告してある馘首《かくしゅ》がこの三十一日と見せかけて実は二十九日にやるらしいこと、パラシュートやマスクの引受高から胸算してみると、それが丁度当っていた、そのためには明後日にせまっている二十八日に少なくとも決定的な闘争をしなければならないと云った。
 見解は一致していた。だから問題はその決定的な闘争をどんな形で持ち込むかにあった。――須山は考えていたが、「こゝまで準備は整っているし、みんなの意気も上がっているのだから、あとは大衆的\煽動《せんどう》で一気に持って行くことだ。」と云った。それから一寸言葉を切って、
「この一気が、一気になるか二気になるかで、勝ち負けが決まるんじゃないかな……?」
「そ。あとは点火夫だけが必要なのよ――八百人のために!」
伊藤はめずらしく顔に興奮の色を出した。
「俺、最近――と云っても、この二三日なんだが、少しジレ/\してるんだ。今迄色々な遣《や》り方で福本イズムの時代のセクトを清算しながらやってきたが、まだ矢張りそれが残っている。今一息というところで、この工場を闘い抜けないのが、そこから来ているんじゃないかな……?」
 須山は私の顔を見て云った。
「誰かが大衆の前で公然とやらかさないと、闘いにならないと思うんだ。量から質への転換だからな。――俺、それは極左的でない[#「極左的でない」に傍点]と思うんだが、どうだろう?」
 須山は、誰かゞそれを「極左的だ」と云ったかのように、それに力をこめて云った。
 私は「独断《ドグマ》」ではなく、「納得」によって闘争を進めて行かなくてはならぬ。それで私は黙って、たゞ問題が正しい方向に進むように、注意していたゞけだった。ところが、それは矢張り正しいところへ向ってきていた。殊に伊藤や須山が仕事のやり方を理窟からではなく、刻々の工場内の動きの解決という点から出発して、而《し》かもそれが正しいところに合致しているのだ。これは労働者の生活と離れていないところから来ていることで、我々の場合こゝに理論と実践の微妙な統一がある。
 ――私は、それを極左的だというのは、卑怯《ひきょう》な右翼\日和見《ひよりみ》主義者が自分の実践上での敗北主義をゴマ化すために、相手に投げつける言葉でしかないと、須山に云った。須山は「そうだ!」と云った。
 私はそこで、私の案を持ち出した。瞬間、抑えられたような緊張がきた。が、それは極く短い瞬間だった。
「俺もそうだと思う……」
 須山はさすがにこわばった声で、最初に沈黙を破った。
 私は須山を見た。――と、彼は、

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