分ったわ! そうねえ。――分ったわ!」
と云って、それが特徴である考え深い眼差《まなざし》で、何べんもうなずいた。
私は冗談を云った。
「最後に笑うものは本当に笑うものだから、今のうちに須山に渋顔をしていて貰うさ!」
伊藤も笑った。
彼女はそれから自分たちのグループを築地小劇場の芝居を見に連れて行ったことを話した。どの女工も芝居と云えば歌舞伎(自分では見たことが無かったが)か水谷八重子しか知らないのに、労働者だとか女工だとかゞ出てきて、「騒ぎ廻わる」ので吃驚《びっくり》してしまったらしかった。終ってから、あれは芝居じゃないわ、と皆が云う。伊藤が、じア何んだと訊《き》くと、「本当のことだ」と云う。面白い? と訊くと、みんなは「さア――!」と云ったそうだ。――然《しか》し余程びッくりしたとみえて、後になってもよく築地の話をし出すそうである。伊藤に何時でもなつい[#「なつい」に傍点]ている小柄のキミちゃんというのが、
「あたし女工ッて云われると、とッても恥かしいのよ。ところが、あの芝居では女工ッてのを鼻にかけてるでしょう。ウソだと思ったわ。」
そんなことを云った。が、それでも考え/\、「ストライキにでもなったら、ウンと威張ってやるけれど、隣近所の人に女工ッて云うのは矢張り恥かしいわ!」
みんなに、何時かもう一度行こうか、ときくと、行こうというのが多いそうだ。それはあの芝居を見ると、うち[#「うち」に傍点]の(うち[#「うち」に傍点]のというのは、自分の工場のことである!)おやじとよく似た奴がウンといじめられるところがあるからだという理由だった。
伊藤が、何気ないように、どうせ俺ら首になるんだ、おとなしくしていれば手当も当らないから、あの芝居みたいに皆で一緒になって、ストライキでもやって、おやじ[#「おやじ」に傍点]をトッちめてやろうかと云うと、みんなはニヤ/\して、
「ウン……」と云う。そしてお互いを見廻しながら、「やったら、面白いわねえ!」と、おやじのとッちめ方をキャッ/\と話し合う。それを聞いていると、築地の芝居と同じような遣《や》り方を知らず識《し》らずに云っていた。
伊藤の影響力で、今迄のこの仲間に三人ほど僚友会の女工が入ってきた。それらは大ッぴらな労働組合の空気を少しでも吸っているので、伊藤たちが普段からあまりしゃべらない事にしてある言葉を、平気でドシ/\使った。それが仲間との間に少しの間隙を作った。それと共に、それらの女工はどこか「すれ[#「すれ」に傍点]」ていた。「運動」のことが分っているという態度が出ていた。――伊藤はその間のそり[#「そり」に傍点]を合わせるために、今色々な機会を作っていた。「小説のようにはうまく行かない」と笑った。
私たちは「エンコ」する日を決め、伊藤が場所を見付けてくれることにした。愈々《いよいよ》最後の対策をたてる必要があった。
「あんた未だなす[#「なす」に傍点]?」
伊藤が立ち上がりながら、そう訊いた。
「あ。」
と云って、私は笑った、「お蔭様で、膝《ひざ》の蝶《ちょう》ちがい[#「ちがい」に傍点]がゆるんだ!」
伊藤は一寸帯の間に手をやると、小さく四角に畳んだ紙片を出した。私はレポかと思って、相手の顔を見て、ポケットに入れた。
下宿に帰って、それを出してみると、薄いチリ紙に包んだ五円札だった。
八
笠原は小さい喫茶店に入ることになった。入ると決まるとさすがに可哀相《かわいそう》だった。運動しているものが、生活の保証のために喫茶店などに入るのは、何んと云《い》っても恐ろしいことで、そういう同志は自分ではいくらしっかりしていようとしても、眼に見えて駄目になって行く。我々にとって「雰囲気」というものは、魚にとっての水と少しもかわらないほど大切なのだ。女の同志が自分一個のためでも、又男と女が一緒に仕事をしていて、とも倒れ[#「とも倒れ」に傍点]からのがれるために喫茶店に入るときでも同じである。ところが笠原の場合、その仕事の訓練さえも持っていないので、ズルズルと低い方に自分の身体を傾けてゆくのは分りきっていた。――だが、どうしても自分の全生涯をとして運動をやろうという気魄《きはく》も持たず、しかも他方私の組織的な仕事は飽《あ》く迄《まで》も守ってゆかなければならぬドタン場に来ている以上、センチメンタルになっていることは出来なかった。
笠原は始め下宿から其処《そこ》へ通った。夜おそく、慣《な》れない気苦労の要《い》る仕事ゆえ、疲れて不機嫌な顔をして帰ってきた。ハンド・バッグを置き捨てにしたまゝ、そこへ横坐りになると、肩をぐッたり落した。ものを云うのさえ大儀そうだった。しばらくして、彼女は私の前に黙ったまゝ足をのばしてよこした。
「――?」
私は笠原の顔を見て、――足に
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