ソヴエート・ロシアの「五カ年計画」の進出、他方には国内資本家間の無駄な競争に、何時でもおびやかされていた。漁区落札数の増減はテキ[#「テキ」に傍点]面に生産高にひゞいた。――「H・S」はそれに備えるために、政府を動かして、国民一般の愛国心とソヴエート・ロシアに対する敵慨心《てきがいしん》を煽り立てなければならなかった。
 今年は更にロシアが組織的に、色々な手段を借りて、わが優良漁区の蚕食をやるという確実な噂さが立っていた。「日露」と「H・S」の株価は傾きかけた水のように暴落していた。
『H・S』のそういう情勢に対しては、河田は「工場細胞」の積極的な活動、「ニュース」による暴露、煽動、新しい「細胞」の獲得は云うまでもないとして、更にこの当面の「戦々兢々」たる動揺をつかんで、職工が労働者としての自分の立場と利益を擁護するために、
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「工場委員会[#「工場委員会」に傍点]」の自主化[#「の自主化」に傍点]
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 の闘争を起すように努力しなければならない事を提議した。
 労働者がどんな資本の「攻勢」にもグイと持ちこらえ得るためには、何より工場全部の労働者が「足並」を揃えることだった。職場《もちば》、職場で態度がチグハグなために、滅茶々々にされることはめずらしくないのだ。それは彼等が色々な問題について、工場の全部にわたって充分に討議する「機関」を持っていないところから来ていた。――その機関として、自主的な工場委員会が必要なのだ。今のところ、それは工場長や、社員できめた役付職工や去勢された職工によって、勝手にされている。我々はそれを労働者の利益のための機関として、労働者によって組織されることを要求しなければならない。――それが可決されて、時期、方法その他の具体案が長い時間かゝって、慎重に練られた。
 それから他の代表者の情勢報告があった。
 運輸労働者のストライキには、そのかゝげる「要求」の中に、必ず工場労働者をも動かし得るような「条項」を入れること。それには工場細胞が全力をあげて、それと工場独特の問題と結びつけて、宣伝、煽動をまき起すこと等が決議された。
 終ると、河田は仰向けに後へひッくりかえった。
 ――これで俺三日ばかり碌《ろく》に寝てないんだ。
 河田は特に警察の追求をうけていた。転々と居場所をかえて、逃げまわっていた。そしてその先き/″\で連絡をとって、組合や森本たちを指導していた。然し二十万に足りない小さい市《まち》では、それは殆んど不可能なほど危険なことだった。

          十八

 会合が終ると、外へは一人ずつ別々に出た。賑やかな通りをはずれて、T町の入口に来た頃、森本の後から誰か、すイと追いついてきて、肩をならべた。オヤッと思うと、それが河田だった。
 ――一寸これからT町へ用事があるんだ。
 森本はその時フト変な予感を持った。――河田はお君のところへ行くのではないか。
 河田は一緒に歩きながら、自分たちの運動のことを熱心な調子で話し出した。河田のその熱心な調子は何時でもそうだが、独断的なガムシャラなところを持っていた。それは初めての人に、無意識な反感さえ持たせた。然し森本はその調子を河田から聞いているときは、何時でも自分のしていることに、不思議な「安心」を覚えた。彼は力と云っていゝものさえ、そこから感じることが出来た。
 ――君はこの仕事に献身的になれるかい。
 ときいた。森本は、なれるさ、と答えた。
 ――献身的の意味だが……。
 河田はそう云って、一寸考えこんで間をおいた。――人通りはまだあった。自動車のヘッドライトが時々河田の顔を半分だけ切って――カーヴを曲がって行った。
 ――献身的と云っても、一生を捧げると云う位の気だな。
 と云った。
 足元で春に近いザラメのような雪がサラッ、サラッとなった。
 ――勿論俺だちの仕事は遊び半分には出来ることでもないし、それに俺だちのようなものが、後から後からと何度も出て来て、折り重なって、ようやくもの[#「もの」に傍点]になるというようなものだから、分りきった事だが……。
 森本は今更あらたまった云い方だ、と思った。
 ――「ニュース」だって半年のうちに、とにかくこの位になったという事は、一糸乱れない「組織」の力だったと思うんだ。――でねえ、俺だちの目的だな、社会主義の国を建てるということだ。そのためには鉄のような「組織」とそれを動かし、死守していく所謂その献身的な同志の力が要るわけだ……。
 又そこで河田らしくなく言葉を切った。
 ――分るな?
 ――分ってるよ。変だな、今更……。
 彼がそう云うと、河田は口の中だけで「ムフ」と笑ったようだった。
 ――その鉄のような組織というのは、工場細胞を通して工場労働者にしっかりと基礎を置き、労働者の最先端に立って闘う政党ということになる。――で、労働者の党と云えば、それは「共産党」しかないわけだろう。
 然しそんなことも森本は飽きる程きかされていたことだった。だから、彼は「それアそうだ」と云った。
 ――鍋焼でも喰いたいな。
 河田は立ち止って、その辺を見廻わした。すこし行くと、小さい処《ところ》が眼についた。二人はそこで鍋焼を食った。――河田は森本の家の事情や、収入や係累のことを聞きながら、自分のことを話し出した。
 こういう運動をやるようになった動機とか、スパイ三人を向うにまわして、鉛のパイプを持って大乱闘をやったことがある話とか、どん[#「どん」に傍点]底の生活をしている可哀相な女が時々金を自分に送ってきてくれる。それが自分のたった一人の女だとか、自家では然し母が彼のことを心に病んで、身体を悪くしているとか、そんなことを話した。彼は「お前にだけ親があると云うのか。」という詩を読んできかせた。それは聞いていると、胸をしめつけた。――何時でも冷やかに動いたことのない彼の瞳が、その詩を云い終ると潤んでいた。森本はこういう河田を初めてみたと思った。仕事をしている河田は一分もそういう彼を誰にも見せたことがなかったのだ。
 ――工場はまだ大丈夫かい。
 と河田がきいた。彼は何時でも森本の「顔」のことを心配していた。
 ――少ォしは。長い間だから。
 ――ん、少ォしでも悪いな。
 ――会社の笠原さんの話だと、最近バカに工場長のところへ警察の高等係がきて、何か話してるそうだ。
 鍋焼の熱いテンプラを舌の上で、あちこちやっていた河田が、眉毛を急にピクッと動かした。
 ――工場長が時々顔の知らない人をつれて、工場のなかを案内して歩くけれども、ひょっとすると、それが高等係かも知れない。それに君ちゃんの話だと、職工のなかには皆の動きを一々報告している、会社に買収された奴がいるそうだ。佐伯たちの手下と知らないで、鉢合せでもしたら事だからな!
 ――……※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 注意しなけれアならないな。
 ――「ニュース」は矢張り分ってるんだ。参ってるらしい。何処で作って、どんな経路で入ってくるかを躍起になってるらしい。
 ――フン!
「ニュース」は初め厳密に手渡しされていた。然し、組織の根が広まり、それが可なりしっかりしたものになってくると、それを工場内の眼のつく所にワザと捨てゝ置いたり、小規模だが、バラ撒いたりするようになっていた。
 ――組合のものが作ってるんだッて、工場長は云ってる。「ニュース」の No.16 かに、専務の一カ年間の精細な収入と家庭生活と一年間の芸者の線香代と妾のことを載せたアレ、とても人気を呼んで、とう/\グル/\廻ってしまった。あれで、女工のうちでは、これが本当なら、専務さんの「ナッパ服」に今迄だまされていたッて、泣いた奴が沢山いたそうだ。噂のような話だけど――
 二人は声を出して笑った。
 ――何んしろ細大|洩《もら》さずだから、彼奴等も浮かぶ瀬が無いだろう。
 外は人通りがまばらになっていた。二人は用心して歩いた。
 森本の家の近くの坂に来たとき、河田が内ポケットから新聞の包みを出した。
 ――これ明日まで読んでおいてくれ。そして読んでしまったら、すぐ焼いてくれ。
 森本はそれを受取った。
 ――じゃ、明日九時頃君のところへ行くから、家にいてくれ。
 そう云って、河田が暗い小径を曲がって行った。
 ――彼はその足音を聞いて、立っていた。
 次の日、森本は河田から「共産党」加入の勧誘をうけた。

          十九

「H・S工場」の細胞が毎日々々集合した。手落ちのないように、細かい方法がそこで決められた。河田も顔を出した。
 ビラの形で撒かれる大衆的なニュースが、本当に生きた働きをするためには、その「時期」が絶対に選ばれなければならなかった。工場委員会が開かれる少し前であって、それが同時に「金菱」の整理断行が確定した日でなければならなかった。
 ビラを撒いてからの第二弾、第三弾の戦術、従業員大会開催の件などが、決議された。
 こん度は、専務の方からも職工も利用しようとしていた。普通のストライキと異っていた。専務は没落しかけている。だから、闘争の相手は専務や工場長ではなかった。この大きな「動揺」をつかんで、職工の結束の機関を獲得することにあった。然し、専務たちのもくろんでいることも、職工を結束させるという点では、その形態は同じだった。――この同じ一点に向ってる丁度逆の二つの力がどのようにもつれ合うか?

 ビラは大体次のような骨組を持った。
 1。工場長が天下り的に工場委員会をきめるのでは何んになる。われ/\は全職工の選挙によって、全委員をきめることを要求する。2。今迄提出する議案は工場長は一応眼を通して、差支えのないものばかり出していた。こんなベラ棒なことがあってなるものか。労働者の本当の日常利害の問題をドシ/\出すこと。3。委員長には工場長が勝手になっていた。これでは職工の利益になる事項が決議されるわけがない、委員長は全委員の互選できめること。4。委員会で決めたことでも、決めッ放しのものがあるし、又工場内の大切な規約を改正する場合などは一度だって委員会に出したことがなく、専務や工場長だけで勝手に決めてしまう。結局どうでもいゝことだけ委員会に出す。これでは委員会は看板より劣る。我々はこんなゴマカシに全部反対だ。5。女工も働いている工場であるからには、女工からも委員を選ぶこと。6。「金菱」の惨酷な整理、労働者の虐使と首切りにそなえるたった一つの力は、この工場委員会の自主化を握って、足並をそろえ、全職工が結束することを措いて他にないこと。7。専務らが自分の地位にしがみつくために策動するかも知れない。それに乗せられてはならないこと。8。市内のゴム会社、印刷会社、鉄工場も同じ問題をひッさげて、立ちかけている。「H・S」の同志に握手を求めていること。9。浜の人夫の窮状はもはや対岸の火事ではない。同じ運命がわれ/\にも待ちかまえている。彼等とも我々は手を握って、共に立たなければならないこと…………等々。

 色々のところから出る噂さや、憶測がグル/\廻わっているうちに、雪だるまのように大きくなった。それが職工たちを無遠慮に掻《か》き廻《ま》わした。皆は落付くことを忘れてしまった。休憩時間を待ちかまえて、皆が寄り集った。職長《おやじ》さえその仲間に首を差しこんできた。
 何時でもこッそり工場長に色々な小道具を造ってやっていた仕上場の職工などは、今度は露骨に悪口をたゝきつけられた。職工は工場で自分のものを作ることは愚か、鉄屑、ブリキ片一つ持ち出しても首だったのだ。
 ――又新しい工場長にもか? ハヽヽヽヽ、精々どうぞね!
 上役にうまく取入って威張っていたもの等が、ガラ/\とその位置を顛倒《てんとう》して行った。支え柱を一旦失うと、彼等は見事に皆の仲間|外《はず》れを食った。
 ――ざまア見ろ!
 皆は大ッぴらに、唾をハネ飛ばした。
 そんな関係を持っている職長などは顔色をなくして、周章てゝいた。が、早くも彼等は、職工の大会を開いて、対策を講じな
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