工場細胞
小林多喜二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)窓枠《まどわく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)横|穿孔機《ボールバン》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゴシ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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          上 一

 金網の張ってある窓枠《まどわく》に両手がかゝって――その指先きに力が入ったと思うと、男の顔が窓に浮かんできた。
 昼になる少し前だった。「H・S製罐《せいかん》工場」では、五ラインの錻刀切断機《スリッター》、胴付機《ボデイ・マシン》、縁曲機《フレンジャー》、罐巻締機《キャンコ・シーマー》、漏気試験機《エアー・テスター》がコンクリートで固めた床を震わしながら、耳をろう[#「ろう」に傍点]する音響をトタン張りの天井に反響させていた。鉄骨の梁《はり》を渡っているシャフトの滑車《プレー》の各機械を結びつけている幾条ものベルトが、色々な角度に空間を切りながら、ヒタ、ヒタ、ヒタ、タ、タ、タ……と、きまった調子でたるみながら廻転していた。むせッぽい小暗い工場の中をコンヴェイヤーに乗って、機械から機械へ移っていく空罐詰が、それだけ鋭く光った。――女工たちは機械の音に逆った大きな声で唄をうたっていた。で、窓は知らずにいた。
 ――あらッ!
「田中絹代」が声をあげた。この工場の癖で、田中絹代と似ているその女工を誰も本名を云うものはなかった。彼女は窓際に走った。コンヴェイヤーの前に立って、罐のテストをしていた男工の眼が、女の後を辿った。――外から窓に男がせり上がっている。その男は細くまるめた紙を、工場の中に入れようとしているらしい。
 女が走ってくるのを認めると、男の顔が急に元気づいたように見えた。彼女は金網の間から紙を受取ると、耳に窓をあてた。
 ――監督にとられないように、皆に配ってくれ。頼みますよ。
 男は窓の下へ音をさして落ちて行った。が、直《す》ぐ塀を乗り越して行く悍《たくま》しい後姿が見えた。
 昼のボーが鳴ると、機械の騒音が順々に吸われるように落ちて行って――急に女工たちの疳高《かんだか》い声がやかましく目立ってきた。
 ――何ァによ、絹ちゃん、ラヴ・レター?
 ――ラヴ・レターの見本か? 馬鹿に太《で》ッかいもんでないか。
 それを見ていた男工も寄ってきた。
 ――そんな事すると、伝明さんが泣くとよ。
 ――そうかい、出目[#「出目」に傍点]でなけァ駄目とは恐ろしく物好きな女だな?
 皆が吹き出した。
 田中絹代がビラを皆に一枚々々渡してやった。
 ――な、何ァんでえ、これはまた特別に色気が無いもんでないか。
 ――組合のビラよ。
[#ここから4字下げ、罫囲み]
   失業労働者大会
・市役所へ押しかけろ!
・我等に仕事を与えよ!
・失業者の生活を市で保証せよ!
[#ここで字下げ終わり]
 仕上場の方から天井の低い薄暗いトロッコ道を、レールを踏んで、森本等が手拭いで首筋から顔をゴシ/\こすりながら出てきた。ズボンのポケットには無雑作に同じビラが突ッこまされていた。
 ――よオッ! 鉄削《かなけづ》りやッてきたな!
 連中を見ると、製罐部の職工が何時もの奴を出した。
 ――何云ってるんだ。この罐々虫!
 負けていなかった。
 ――鉄ばかり削っているうちに、手前えの身体ば鰹節《かつおぶし》みてえに削らねェ用心でもせ!
 製罐部と仕上場の職工は、何時でもはじき合っている。片方は熟練工だし、他方は機械についてさえいればいゝ職工だった。そこから来ていた。普段はそれでもよかったが、何かあると、知らないうちに、各々は別々に固まった。――例えば、仕上場の誰かゞ「歓迎」か「観迎」か分らなかったとする。すると、仕上場全部が「一大事」でも起ったように騒ぎ出す。彼等はこんな事でも充分に夢中になった。頭を幾つ並べてみたところで、同じ位の頭では結局どうしても分らず、持てあましてしまう。然し彼等は道路一つ向うの「事務所」へ出掛けて行って、ネクタイをしめた社員にきくことがあっても、製罐部の方へは行かないのだ。
 相手の胸にこたえるような冗談口をさがして、投げ合いながら、皆ゾロ/\階段を食堂へ上って行った。上から椅子の足を床にずらす音や、女工たちのキャッ/\という声が「塩鱒」の焼ける匂いと一緒に、賑《にぎ》やかに聞えてきた。
 この日、Yの「合同労働組合」のビラは「H・S工場」へ三百枚程入った。職場々々の「職長《おやじ》」さえもビラを持っていた。然し、そのビラのことは食事中ちっとも誰もの話題にならなかった。
 飯が終って、森本が遅く階段を降りてくると、段々のところ/″\や、工場の隅々に、さっきのビラが無雑作にまるめられたり、鼻紙になったり、何枚も捨てられているのを見た。――彼はありありと顔を歪《ゆが》めた。

          二

「H・S製罐会社」は運河に臨んでいた。――Y港の西寄りは鉄道省の埋立地になって居り、その一帯に運河が鑿《ほ》られている。運河の水は油や煤煙を浮かべたまゝ澱《よど》んでいた。発動機船や鰈《かれい》のような平らべったい艀《はしけ》が、水門の橋梁の下をくゞって、運河を出たり入ったりする。――「H・S工場」はその一角に超弩級艦のような灰色の図体を据えていた。それは全く軍艦を思わせた。罐は製品倉庫から運河の岸壁で、そのまゝ荷役が出来るようになっていた。
 市《まち》の人は「H・S工場」を「H・S王国」とか、「Yのフォード[#「Yのフォード」に傍点]」と呼んでいる。――若い職工は帰るときには、ナッパ服を脱《ぬ》いで、金ボタンのついた襟《えり》の低い学生服と換えた。中年の職工や職長《おやじ》はワイシャツを着て、それにネクタイをしめた。――Y駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「H・S工場、――約十八町」と書かれている。
 Y市は港町の関係上、海陸連絡の運輸労働者――浜人足、仲仕が圧倒的に多かった。朝鮮人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Yではそれ等を指していた。彼等はその殆んどが半自由労働者なので、どれも惨《みじ》めな生活をしていた。「H・S工場」の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「H・S工場」に勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたのだ。
 
 森本は仕事台に寄っても仕事に実《み》が入らなかった。――彼は今日組合のビラが撒《ま》かれることは知っていたし、又そのビラが撒かれたときの「H・S工場」内の動きについて、ある会合で報告しなければならないことになっていた。だが、見ろ、こんな様《ざま》をオメ/\と一体誰に報告が出来るものか。職工の一人も問題にしないばかりか、巡査上りの守衛から、工場長さえ取り合いもしない。ビラの代りに、工場の中に虻《あぶ》か蜂の一匹でも迷いこんだ方が、それより大きな騒ぎになるかも知れないのだ。「虻」と「ビラ」か! それさえ比較にならないのだ。――そこまでくると、彼はもう張り合いが感ぜられなくなった。
 職場の片隅に取付けてある十馬力の発動機《モーター》は絶え間なく陰鬱な唸《うな》りをたてながら、眼に見えない程足場をゆすっていた。停電に備えるガソリン・エンジンがすぐ側に据えつけられている。――そこは工場の心臓[#「心臓」に傍点]だった。そこから幹線動脈のように、調帯《ベルト》が職場の天井を渡っている主動軸《メエンシャフト》の滑車にかゝっていた。そして、それがそこを基点として更にそれ/″\の機械に各々ちがった幅のベルトでつながっていた。そのまゝが人間の動脈網[#「動脈網」に傍点]を思わせる。穿孔機《ボールバン》、旋盤、穿削機《ミーリング》……が鋭い音響をたてながら鉄を削り、孔《あな》をうがち、火花を閃《ひら》めかせた。
 働いている職工たちは、まるで縛りつけられている機械から一生懸命にもがい[#「もがい」に傍点]ているように見えた。腰がふん張って、厚い肩が据えられると、タガネの尻を押している腕先きに全身の力が微妙にこもる。生きた骨にそのまゝ鑪《やすり》を当てられるような、不快さが直接《じか》に腕に伝わる。刃先から水沫のように、よ[#「よ」に傍点]れた鉄屑が散った。鍛冶場から、鋲付《リベッティング》の音が一しきり、一しきり機関銃のように起った。
 こゝは製罐部のような小刻《こきざみ》な、一定の調子《リズム》をもった音響でなしに、図太い、グヮン/\した音響が細い鋭い音響と入り交り、汽槌《スチーム・ハンマー》のドズッ、ドズッ! という地響きと鉄敷《かなじき》の上の疳高く張り上がった音が縫って……ごっちゃになり、一つになり、工場全体が轟々《ごうごう》と唸りかえっていた。鍛冶場の火焔が送風器で勢いよく燃え上ると、仕上場にいる職工の片頬だけが、瞬間メラ/\と赤く燃えた。
 天井を縦断している二条のレールをワイヤー・プレーをギリ/\と吊したグレーンが、皆の働いている頭のすぐ上を物凄《ものすご》い音を立てゝ渡って行った。それは鋳物場で型上げしたばかりの、機関車の車輌の三倍もある大きな奴で、ワイヤー受けの溝をほるために、横|穿孔機《ボールバン》に据えつけるためだった。
 ――頼むどオ! 南部センベイは安いんだ!
 身体を除《の》けながら、上へ怒鳴っている。
 ――まず緊縮! 文句云うな。手前一人片付けば、サバ/\するァ!
 ハンドルを握っていた職工が上で唾《つば》をひッかける真似をした。
 ――畜生々々!
 下のは大ゲサ[#「ゲサ」に傍点]に横へ跳《は》ねた。
 ――上から見れア、どいつもこいつも薄汚くゴミ/\してやがる。
 ――少し高いところさ上ったと思って、可哀相に畜生、すぐブル[#「ブル」に傍点]根性を出しやがる。
 ――ヘン、だ。手前らを顎《あご》で一度は使っても見たくならァ。
 横ボール盤の側に、四五人の職工とパンパン帽をかぶった職長が集って、ワイヤー・プレーを跛《びっこ》に吊したグレーンがガラ/\と寄ってくるのを見ていた。
 ――オーライ!
 渡り職工の職長が手を挙げた。手先きを見ていたハンドルの職工がグイと手元にひいた。グレーンがとまると、ワイヤー・プレーは余勢でゆるく揺れた。その度にチエンが、ギーイ、ギーイときしんだ。周《ま》わりを取巻いていた職工たちが、その揺れの拍子を捕えて、丁度足場の上へ押して行った。
 ――レッコ、レッコ!
 職長は手先きをお出で/\をするように動かした。チエンがギクシャクしながら、延びてきた。エンヤ、コラサ、エンヤ、コラサ……皆は掛声をかけ始めた。ワイヤー・プレーは底を二つの滑車にのせ、穿孔機《ボールバン》の腕にその軸と翼を締めつけて、固定された。グレーンが喧《やかま》しい音をたてゝ、チエンを捲き上げた。白墨を耳に挟《はさ》んだ彼等は、据えつけた機械のまわりを歩いたり、指先きでこすってみたり、ヤレ、ヤレという顔をした。
 ――森本のところからは、それが蟻《あり》が手におえない大きなものを寄って、たかって引きずッているように見えた。素晴しく大きな鉄の機械の前には、人間は汚れた鉄クソ[#「鉄クソ」に傍点]のように小さかった。彼は製罐部の護謨塗機《ライニング・マシン》の壊れた部分品を、万力台《バイス》にはさんで、鑪《やすり》をかけていた。――足場の乗り[#「乗り」に傍点]が一分ちがったとする。その時チエンがほぐれて……。と、あの大きなワイヤー・プレーはたった一つの音もたてずに、グイと手前にのめってくる。四人の職工のあばら[#「あばら」に傍点]骨が障子の骨より他愛なくひッつぶされてしまう。たった一分のちがいだとしても。二円にもならない、そこそこの日給を稼ぐために、職工は安々と命をかけている。――だ
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