のに、この職工たちは「ビラ」を鼻紙にしてしまった!
 彼はマシン油で汚れた手を、ナッパの尻にゴシ/\こすった。「ま、それでもいゝだろう……!」――そして彼はフン、と鼻をならした。

          三

 終業のボーが鳴ると、皆は仕事場から一散に洗面所へ馳《か》け出した。狭いコンクリートの壁が、女湯のような喧ましさをグヮン/\響きかえした。顔の所々《ところどころ》しか写らない剥げた鏡の前で、膚ぬぎになった職工たちが、石鹸《せっけん》の泡とお湯をはね飛ばした。悍しい肩と上膊の筋肉がその度にグリ、グリッとムクレ上った。
 ――馬鹿野郎め、石鹸が泣きやがる、オイ鑪でゴシ/\やってくれ。
 ――田中絹代さんにふられ[#「ふられ」に傍点]たいってね。
 ――オヤ/\だ、この野郎。
 割り込んで来る奴を、両方のが尻と尻をくッつけて邪魔をした。
 ――何んだ、大きくもない尻《けつ》を! 尻を割るど、此奴!
 ――へえ、済みませんね、エミちゃんのお尻でなくて。
 ――抱くにも、抱かれぬッてとこだな。ハハヽヽヽヽヽ。
 その後で、皆は手拭《てぬぐい》を首にまきつけて、つッ立ったり、白い角《かく》の浮石鹸を手玉にしたり、待っていた。
 ――こん畜生、だまってるとえゝ[#「えゝ」に傍点]気になりやがって、棒杭《ぼうぐい》じゃないんだど。
 と、云われた奴が石鹸で顔中をモグモグさせながら、
 ――へえ、何時《いつ》人間様になったかな。俺はまた職工さん[#「職工さん」に傍点]だとばかり思っていたが!
 見当ちがいの方を見て、云いかえした。
 申訳程の仕切りがあって、女工たちの洗面所がすぐ続いていた。洗面所にしゃがむと、女工たちの腰から下が見えた。職工たちは腰から下だけの「格好」で、誰が誰かを見分けるのに慣れていた。顔を何時までも洗っている振りをして、職工たちはそれを見ていた。
 ――あの三番目が「モンナミ」の彩《あや》ちゃんだど。
 工場では、Y市の有名なカフエーやバーのめずらしい名前をとってきて、「シャン」な女工を呼んでいる。
 ――どうだいあの腰の工合は!
 ――あいつ、この頃めっきり大人になってきたぞ。フン!
 ――腰がものを云うからな。
 ――こっちは誰だ?
 ――おッと、動いたぞ。足を交えた。……いゝなア、畜生!
 ――オイッ!
 後に立っているものが、それを見付けて、いきなり二つ並んでいる頭を両方からゴツンとやった。
 ――出歯亀!
 女の方で何か云いながら、一度にワッ、と笑い出した。すると、こっちでもわざと声をあげた。
 洗面所を出ると、出口で両方から一緒になった。帰るとき、女たちはまるッきり別な人[#「別な人」に傍点]になって出てきた。
 ――お前は誰だっけな?
 煙筒や汽罐の打鋲《リベッティング》をやっている六十に近い眼の悪い、耳の遠い職工には、本当に見分けがつかない。
 ――プッ! お爺さん、色気なくなったね。
 そして女に背中をたゝかれた。
 ――お婆さんを間違わないでね。
 ――こん畜生!
 会社は、女工が帰りに「お嬢さん」になることにも、カフエーの「女給《ウエイトレス》」になることにも、職工が「学生」になることにも、「会社員」になることにも、黙っていた。それだけの事が出来るから、そうするので、そこには少しの差支もある筈《はず》がない。Y市を見渡してみても、職工にそれだけのことの出来る待遇を与えている工場はあるまい、工場長はそう云っていた。
 洗面所を出ると、狭い廊下を肩で押し合いながら、二階の「脱衣室」に上って行った。両側が廃品《アウト》倉庫になって居り、箱が何十階のビルジングのように、うず高く積まさっていた。そこは暗かった。――女がキャッ! と叫んだ。そこへ来ると、誰か女によく悪戯《いたずら》した。
 ――この、いけすかない男!
 ――オイ、今日は……?
 ――今日? 約束があるの。
 ――本当か。何んの約束だ。誰と?
 ――これでも、ちァんとね。
 ――こん畜生!
 其処《そこ》では、何時でも手早い「やりとり」が交わされることになっていた。
 職工はよく仕事をしながら、次の持場にいる女と夜会う約束をするために、コンヴェイヤーに乗って来る罐詰に、
「ハシ、六」
 と書いてやる。男は手先きだけ動かしながら、その罐が機械の向うかげにいる女の前を通って行くのを見ている。女はチラッと見つけると、それを消して、そして男に微笑《ほほえ》んでみせる。
 ――「六時、何時もの橋のところ」というのが、その意味だった。そういうのが幾組もある。
 森本は顔をしかめた。こういう中から一体自分たちの仕事の仲間になってくれるようなものが、何人出るのだ。それを思うと、胸の下が妙に不安になり、落付けなくなった。

 脱衣所の入口に掲示が出ていた。森本は始め「ホオッ!」と思った。皆が服の袖に手を通しながら、その前に立っていた。
[#ここから3字下げ、罫囲み]
   告

 皆サンモ知ッテイル通リ、本日何者カヾ当工場ニ「失業者大会」ノビラ[#「ビラ」に傍点]ヲ撒イテ行キマシタ。云ウマデモナク最近ノ不況ハドシ/\失業者ヲ街頭ニ投ゲ出シテ居リ、ソレハ全く見ルニ忍ビナイモノサエアルノデス。然シ我工場ハ幸イニシテ、皆サンノ勤勉努力にヨッテ、ソノ些々タル影響モ受ケテイナイノデアリマス。一度工場外ニ足ヲフミ出シテ見レバ分ル通リ、当工場ハマサニ「Yノフォード[#「Yノフォード」に傍点]」タル名ニ恥シクナイ充分ノ待遇ヲ、ソノ時間ノ点カラ云ッテモ、ソノ賃銀ノ上カラ云ッテモ、皆サンニ与エテ居ルノデアリマスカラ、コノ際決シテ、カヽル宣伝ニ附和雷同セザル様、呉々モ申述ベテ置ク次第デアリマス。
 右[#地から1字上げ]工場長
[#ここで字下げ終わり]
 森本はそれを読むのに何故かあせり[#「あせり」に傍点]を感じて、字を飛ばした。
 ――チエッ! 行きとゞいてやがる!
 彼はその言葉が、自分ながら不覚にもかぶと[#「かぶと」に傍点]を脱いだ心のゆるみを出しているのにハッとした。彼は油っぽい形のくずれた鳥打ちを無雑作にかぶった。
 工場の前の狭い通りを、その幅を一杯にみたして、職工や女工が同じ方向へ流れていた。彼はその中に入りながら、独《ひと》りであることのうそ寒さを感じていた。
 運河の鉄橋を渡ると、税関や波止場、水上署、汽船会社、倉庫続きの浜通りだった。――浜人夫がタオ/\としわむ「歩板《あゆみ》」を渡って、艀から荷降しをしていた。然し所々に何人もの人夫が固まって、立っていた。それ等の労働者は瀬戸を重ねた大きな弁当を、地べたにそのまゝ置いたり、ぶら下げたり、他の人達の働いているのを見ていた。――「あぶれた」人夫達だった。
 夏枯《なつがれ》時で、港には仕事らしい仕事は一つもないのだ。市役所へおしかけようとしている連中がそれだった。岸壁につながっている艀はどの艀も死んだ鰈を思わせた。桟橋《さんばし》に近い道端に、林檎《りんご》や夏|蜜柑《みかん》を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐って見ていた。
 その「あぶれた」人足たちは「H・S工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「H・S」の職工たちは「俺らはお前たちの仲間とは異《ちが》うんだぞ」という態度をオッぴらに出して、サッサと彼等の前を通り過ぎてしまった。この事は然し脱衣室の前の貼紙がなくても、そうだったのだ。
 浜人足――この運輸労働者達は「親方制度」とか「現場制度」とか、色々な小分立や封建的な苛酷な搾取《さくしゅ》をうけ、頭をはねられ、追いつめられた生活をしているので、何かのキッカケでよくストライキを起した。Y市の「合同労働組合」はこれ等の労働者をその主体にしていた。しかし「H・S工場」の職工は一人も入っていないと云ってよかった。
 森本はその浜の労働者のうちに知った顔を幾つか見付けた。組合で顔を合せたことのある人達だった。然し彼は今、この職工たちの中にいては、その人達に言葉をかける「図々しさ」を失っていた。

          四

 父は帰っていなかった。――六十を越している父は、彼より朝一時間早く出て行って、二時間遅く帰ってくる。陸仲仕の「山三現場」に出ていた。耳が遠くなり、もう眼に「ガス」がかゝっていた。電話の用もきかず、きまった仕事の半分も出来ないので、親方から毎日露骨にイヤな顔をされていた。然し二十年以上も勤務している手前、親方も一寸どう手をつけていゝか困りきっているらしかった。
 ――つらいなア……!
 フッとそれが出る。朝やっぱり出渋《でしぶ》るのだ。
 ――仕事より親方の顔ば見てれば、とッても……なア!
 まだ暗い出掛けに上り端で、仕事着の父親がゴリ/\ッと音をさして腰をのばす。それを聞く度に彼は居たまらない苦痛を感じた。――然し彼は、何時かこの父親をもっと、もっと惨めにしてしまわなければならない事を、フト考えた。――
 家の中は一日中の暑気で湿ッ気と小便臭い匂いがこもり、ムレ[#「ムレ」に傍点]た畳の皮がブワ/\ふくれ上っていた、汗ばんだ足裏に、それがベタ/\とねばった。
 猿又一つになって机の前に坐ると、手紙が来ていた。「中野英一」というのが差出人だった。それは工場の女工だった。その女を森本はようやく見付けたのだった。そのたった「一つ」をまず足場に、女工のなかにつながり[#「つながり」に傍点]を作って行かなければならなかった。彼は組合の河田からその方針について、指令をうけていた。手紙は簡単に「トニカク、クワシイ事ヲオ話シマショウ。明日八時、石切山ノ下デマッテイマス。」――書くなと云った通り、自分の名前も、宛《あ》てた森本の名も書いてなかった。
 夏の遅い日暮がくると、団扇《うちわ》位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきていた。白い、さらしの襦袢《じゅばん》一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパン窯《かまど》のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけて、泥溝《どぶ》板をガタ/\させ、走り廻っていた。何時迄も夕映《ゆうばえ》を残して、澄んでいる空に、その喚声がひゞきかえった。
 ――腹減らしの餓鬼《がき》どもだ!
 父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。
 ――どうだった、父《とっ》ちゃの方は?
 ――ン?
 彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程の危《あやう》さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの分らないことに引きずり込まれたらこと[#「こと」に傍点]だと思っているらしかった。
 ――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。
 ――組合のものだべ、あれア!
 父は新聞の話でもするような無関心さで云った。
 ――他人《ひと》事でないど、父ちゃ。今に首になればな。
 父は返事をしないで、薄暗い土間にゴソ、ゴソ音をさせた。少しでも暗いと、「ガス」のかゝった眼は、まるッきり父をどまつかせた。父は裏へまわって行った。便所のすぐ横に、父は無器用な棚をこしらえて、それに花鉢を三つ程ならべていた。その辺は便所の匂いで、プン/\していた。父は家を出ると、キット夜店から値切った安い鉢《はち》を買ってくる。
 ――この道楽爺! 飯もロク/\食えねえ時に!
 母はその度に怒鳴った。その外のことでは、ひどい喧嘩《けんか》になることがあっても、鉢のことだと父は不思議に、何時でもたゞニヤ/\していた。――父はおかしい程それを大事にした。帰ってくると、家へ上る前に必ず自分で水をやることにしていた。仕方なく誰かに頼んで、頼んだものが忘れることでもあると、父は本気に怒った。――可哀相に、奴隷根性のハケ口さ、と森本は笑っていた。
 ――今日の暑気で、どれもグンナリだ。
 裏で独言《ひとりごと》を云っているのが聞えた。
「H・S工場」にも、少し
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