年輩の職工は小鳥を飼ってみたり、花鉢を色々集めてみたり、規帳面《きちょうめん》にそれの世話をしてみたり、公休日毎に、家の細々した造作を作りかえてみたりする人が沢山《たくさん》いた。職工の一人は工場へ鉢を持ってきて、自分の仕事台の側にそれを置いた。
 ――花のような美人《べっぴん》ッて云うべ。んだら、これ美人《べっぴん》のような花だべ。美人の花ば見て暮すウさ。
 工場に置かれた花は、マシン油の匂いと鉄屑とほこりと轟々たる音響で身もだえした。そして、其処では一週間ももたないことが発見された。
 ――へえ!
皆は眼をまるくした。
 ――で、人間様はどういう事になるんだ?
 居合わせた森本がフト冗談口をすべらした。――すべらしてしまってから、自分の云った大きな意味に気付いた。
 胴付機《ボデイメエカー》の武林が小馬鹿にして笑った。
 ――夜店で別な奴と取りかえてくるさ。労働者はネ、選《よ》りどり自由ときてらア、ハヽヽヽヽヽ。
 新聞社の印刷工などに知り合いを持っているアナアキストの職工だった。――
 父が裏口から何か云っている。声が聞えず、動く口だけが汚れた硝子《ガラス》から見えた。
 ――お前、十五銭ばかし持ってないかな。
 具合悪そうに、そう云っているのだ。
 彼は又かと思った。「うん」と云うと、父は子供のような喜びをそのまゝ顔に出した。
 ――えゝ鉢があってナ、市《まち》さ出るたびに眼ばつけてたんだどもナ……!

          五

 暗くなるのを待った。その「会合」は秘密にされなければならなかった。
 ――活動へ行ってくるよ。
 家へはそう云った。昼のほとぼりで家の中にいたまらない長屋の人達は、夕飯が済むと、家を開《あ》けッ放しにしたまゝ、表へ台を持ち出して涼んだ。小路は泥溝《どぶ》の匂いで、プン/\している。それでも家の中よりはさっぱりしていた。大抵裸だった。近所の人たちと声高に話し合っていた。若い男と女は離れた暗がりに蹲《しゃが》んでいた。団扇だけが白く、ヒラ/\動くのが見えた。森本はそのなかを、挨拶をしながら表通りへ抜けた。――この町は「工場」へ出ている人達、「港」へ出ている人達、「日雇」の人達と、それ/″\何処かに別々な気持をもって住んでいる。
 この一帯はY市の端《は》ずれになっていた。端ずれは端ずれでも、Y市であることには違いなかった。然しこのT町の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Yへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もT町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ/\していて、臭《くさ》くて、煤《すす》けていた。労働者の街だった。つぶれた羊羹《ようかん》のような長屋が、足場の据《すわ》らないジュク/\した湿地に、床を埋めている。
 森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配の急な階段がせまった。彼は爪先きで探《さぐ》って――階段の刻《きざ》みを一つ一つ登った。粗末な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。
 ――誰?
 上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。
 ――森。
 ――あ、ご苦労。
 室一杯煙草の煙がこめて、喫《の》みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それにのそり[#「のそり」に傍点]と身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人には傲慢《ごうまん》だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のようなすわり[#「すわり」に傍点]があるんだ、と組合のものが云っていた。
 仰向《あおむ》けになって、バットの銀紙で台付コップを拵《こし》らえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。
 ――よオッ!
 石川はもと「R鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそういう方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。
 もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかったので、森本にはまだ親しみが出ていなかった。彼は膝を抱えて、身体《からだ》をゆすっていたが、煙を出すために窓を開けた。急に、波のような音が入ってきた。下のアスファルトをゾロ/\と、しっきりなしに人達が歩いている。その足音だった。多燈《スズラン》式照明燈が両側から腕をのばして、その下に夜店が並んでいた。――植木屋、古本屋、万年筆屋、果物屋、支那人、大学帽……。人達は、方向のちがった二本の幅広い調帯《ベルト》のように、両側を流れていた。何時迄見ていてもそれに切れ目が来ない。
 ――暇な人間も多いんだな。
 ――鈴木君、顔を出すと危いど。
 河田が謄写版刷りの番号を揃《そろ》えていたが、顔をあげた。
 ――顔を出すと危いか。ハヽヽヽ、汽車に乗ったようだな。
 ――じァ、やっちまうか……。
 灰皿を取り囲んで四人が坐った。
 ――森本君とはまだ二度しか会っていないから、或いは僕等の態度がよく分っていないかと思うんだ……。
 河田は眉をひそめながらバットをせわしく吸った。
 ――手ッ取り早く云うと、こうだと思うんだが……。これまでの日本の左翼の運動は可なり活発だったと云える。殊に日本は資本主義の発展がどの分野でゝも遅れていた。それが戦争だとか、其他色ンナ関係から急激に――外国が十年もかゝったところを、五年位に距離を縮めて発展してきた。プロレタリアも矢張り急激に溢《あふ》れるように製造されたわけだ。そこへもってきて、戦争後の不景気だ。で、日本の運動がそこから跳ねッかえりに、持ち上ってきたワケだ。然し問題なのは、その「活発」ッてことだ。何故活発だったか、これだ。――僕らにはあの「三・一五事件」があってから、そのことが始めてハッキリ分ったんだが……手ッ取り早く云えば、工場に根を持っていなかった[#「工場に根を持っていなかった」に傍点]という事からそれが来ていた。それも「大工場」「重工業の工場」には全然手がついていなかったと云ってもいゝんだ。Yをみたってそうだ。労働組合の実勢力をなしているのが、港の運輸労働者だ。それはそれ/″\細かく分立している。それに実質上は何んたって反自由労働者で、職場から離れている。だから成る程事毎に動員はきくし、それはそして一寸見は如何にもパッとして華やかだ。日本の運動が活発だったというのは、こゝんとこから来ていると思うんだ。然し何より組織の点[#「組織の点」に傍点]から云ったら、零《ゼロ》だった。チリ/\バラ/\のところから起ったんだから、終ったあとも直ぐチリ/\バラ/\だ。統計をみたって分るが、その間大工場は眠っている牛のように動かなかったんだ。――工場が動きづらい理由はそれァある。ギュッ/\させられている小工場は別として、何千、何万の労働者を使っている高度に発達した大工場となると、とても容易でないのだ。――容易でないが、「大工場の組織」を除いて、僕らの運動は絶対にあり得ないのだ。早い話が、この近所に小さい争議を千回起すより、夕張と美唄二つだけの炭山にストライキを起してみろ。日本の重要産業がピタリと止まってしまう。これは決して大それた事でなくて、ストライキは必ずこういう方向に進んで行かなければならない事を示していると思うんだ。――今迄の繰りかえしのようなストライキはやめることだ。だから……どうも、何んだかすっかり先生らしくなったな……。
 河田が「臼」を一撫《ひとな》でした。
 ――ま、詳しいことは又色んな時にゆっくりやれるとして。とにかく今になって云うのも変だが、「三・一五事件」で、何故僕らがあの位もの要らない犠牲を払ったか、ということだ。それは、さっき云ったあの華々しい運動をやっていた先輩たちが、非合法運動なのに、今迄の癖がとれず、時々金魚のように水面へ身体をプク/\浮かばしていたところから来てるんだ。工場に根をもった、沈んだ仕事[#「沈んだ仕事」に傍点]をしていなかったからだ。――実際、僕たちの仕事が、工場の中へ、中へと沈んで行って、見えなくなってしまわなければならなかったのに、それを演壇の上にかけのぼって、諸君は! とがな[#「がな」に傍点]ってみたり、ビラを持って街を走り廻わることだと、勘ちがいをしてしまったのだ。――日本の運動もこゝまで分ってきた…………。
 ――ところが、本当は仲々分らないんだよ。恐ろしいもんだ。
 石川が河田の言葉をとった。銀紙のコップをバットの空箱に立てながら、何時ものハッキリしない笑顔を人なつッこく森本に向けた。
 ――ボロ船の舵《かじ》のようなもので、ハンドルを廻わしてから一時間もして、ようやくきい[#「きい」に傍点]てくるッてところだ。今迄の誤ッてた運動の実践上の惰勢もあるし、これは何んてたって強い[#「これは何んてたって強い」に傍点]。それに工場の方は仕事はジミだし、又実際ジミであればあるほどいゝのだから……仲々ね。――
 ――それは本当だ。でねえ、僕らが何故口をひらけば「工場の沈んだ組織」と七くどく云うかと云えば、仮りにYのような浮かんだ[#「浮かんだ」に傍点]労働組合を千回作ったとしても、「三・一五」が同様に千回あれば、千回ともペチャンコなのだ。それじゃ革命にも、暴動にも同じく一たまりもないワケだ。話が大きいか。ところが、こうなのだ。最近戦争の危機がせまっていると見えて、官営[#「官営」に傍点]の軍器工場では、この不況にも不拘《かかわらず》、こっそり人をふやしてるらしい。M市のS工場などは三千のところが、五千人になっているそうだ。この場合だ。僕らが、その工場の中に組織を作って行ったとする。それは勿論、表面などに「活発にも」「花々しく」も出すどころか、絶対に秘密にやって行くわけだ。そこへ愈々《いよいよ》戦争になる。その時その組織が動き出すのだ[#「その組織が動き出すのだ」に傍点]。ストライキを起す。――軍器製造反対だ。軍器の製造がピタリととまる。それが例えば大阪のようなところであり、そして一つの工場だけでなかったとしたら、戦争もやんでしまうではないか。こゝを云うのだ。――然しこんなことをY労働組合の誰かに云ったら、夢か、夢を見てるのかと云われそうだ。がこれだけは絶対に今から[#「今から」に傍点]やって行かないと、乞食《こじき》の頭数を集めるように、その場になって、とてもオイそれと出来ることではないんだ。
 ――僕らはそれをやって行こうと思っているんだ。そのために……。
 ――俺も失敗《しくじ》ったよ。
 石川が云った。
 ――職場ば離れるんでなかった。な、河田君!
 ――然しあの頃と云ったら、組合へ必ず出てきて、謄写版を刷って、ビラをまくことしか「運動」と云わなかったもんだ。
 ――そうなんだ。正直に云って、工場にじっとしていることが、良心的にたまらなかったんだ、あの頃は。
 森本は初めて口を入れた。
 ――然し工場は動き[#「動き」に傍点]づらいと思うんです。大工場になると「監獄部屋」のようなことはしないんですから……。
 彼は今日の工場の様子を詳しく話した。河田たちは一つ、一つ注意深くきいていた。
 ――それはそうだ。
 と河田が言った。
 ――だから今迄何時も工場が後廻わしになってきたのだ。

          六

 森本は
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