河田に云われて、「H・S工場」の地図を書いた。河田はその他に、市内の色々な工場の地図を持っていた。それからY市の全図を拡げて「H・S」のところに赤い印をつけた。
――水上署とは余程離れてるだろうか。
――四……四町位でしょう。
――四町ね?
――悪いところに立ってるな。
石川が顔をあげた。
――この市《まち》の水上はドウ[#「ドウ」に傍点]猛だからな。
[#H・S工場の地図(fig1466_01.png)入る]
森本は工場について一通り説明した。――工場Aが製罐部で、罐胴をつくるボデイ・ラインと罐蓋をつくるトップ・ラインに分れている。ボデイの方は、ブリキを切断して、円く胴をつくり、蓋《ふた》をくっツけて締めつけ、それが空気が漏《も》れないか、どうかを調べる。切断機《スリッター》、胴付機《ボデイ・マシン》、罐縁曲機《フレンジャー》、罐巻締機《キャンコ・シーマー》、空気検査機《エアー・テスター》などがその機械で、トップの方は錻力圧搾機《プレス》、波形切断機《スクロール》、と蓋の溝にゴムを巻きつける護謨塗機《ライニング・マシン》がある。――工場Bは、階下はラッカー工場で、罐に漆《うるし》を塗るところで、作業は秘密にされていた。階上は罐をつめる箱をつくるネーリング工場で、側板、妻板、仲仕切りを作っている。――出来上った罐とこの空箱が倉庫の二階のパッキング・ルームに落ち合って、荷造りされるわけである。工場Cは森本たちのいる仕上場になっていた。
――その外の附属は?
河田がきいた。
――実験室。これはラバー(ゴム引き)の試験と漆塗料の研究をやっています。こゝにいる人は私らにひどく理解を持ってゝくれるんです。どッかの大学を首になったッて話です。
――自由主義者ッてところだろう。
――それから製図室と云って、産業の合理化だかを研究しているところがあります。
――ホ、産業の合理化?
河田が調子の変った響きをあげた。
――「H・S工場」が始めて完全なコンヴェイヤー組織にかえられたのも、こゝの部員があずかって力があったそうです。――その時は一度に人が随分要らなくなったので、とう/\ストライキになって、職工たちが夜中に工場へ押しかけて行って、守衛をブン殴《な》ぐって、そのコンヴェイヤーのベルトを滅茶苦茶にしてしまったことがありました。何んしろ、作業と作業の間に一分の隙《すき》もない程に連絡がとれて居り、職場々々の職工たちは、コンヴェイヤーに乗って徐々に動いて来る罐が、自分の前を通り過ぎて行く間に割り当てられた仕事をすればいゝというようになってしまったのですから、たまりません。縁曲機《フレンジャー》なども、もとは職工がついていたが、今使っている機械は自動化[#「自動化」に傍点]されて、一人も要らなくなったんです。
――ん。
――今工場ではブリキ板を運ぶのに、トロッコを使っていますが、あれも若しコンヴェイヤー装置にでもしてしまうような事があったら、そこでも亦《また》人がオッ出されるわけでしょう。
――なるだろう。なるね。
――なるんです。製図室や実験室の人達には懸賞金[#「懸賞金」に傍点]がかけられているんです。
――うまいもんだ。
――その人達は何時でも、アメリカから取り寄せて、モーターやボイラーの写真の入った雑誌を読んでいます。
――これから色々僕たちの仕事を進めていく上に、職工のことゝは又別に、会社の所謂《いわゆる》「高等政策」ッてものも是非必要なのだ。で、上の方の奴をその意味で利用することを考えてもらいたいと思うんだ。
森本はうなずいた。
――工場のことでも、私らの知っていることは、ホンのちょッぴりよりありません。
――そうだと思うんだ。……それでと……。
眼が腕時計の上をチラッとすべった。
――そうだな……。
疲れたらしく、石川が口の中だけで、小さくあくび[#「あくび」に傍点]を噛《か》んだ。
――ン、それから工場の中の対立関係と云うかな……あるだろうね。
――え……職場々々で矢張りあります。仕上場の方は熟練工だし、製罐部の方はどっちかと云えば、女工でも出来る仕事です。それで…………。
森本がそう云って、頭に手をやった。河田は彼のはにかんだ笑い顔を初めてみたと思った。角ばった、ごッつい[#「ごッつい」に傍点]顔だと思っていたのに、笑うと輪廓《りんかく》がほころんで、眼尻に人なつッこい柔味が浮かんだ。それは思いがけないことだった。
――私らなど、何んかすると……金属工なんだぜ、と……その方の大将なんです。それから日雇や荷役方は職工と一寸変です。事務所の社員に対しては、これは何処《どこ》にでもあるでしょう。――女事務員は大抵女学校は出ているので、服装から違うわけです。用事があって、工場を通ることでもあると、女工たちの間はそれア喧しいものです。
森本は声を出して笑って、
――男の方だって、さアーとした服を着ている社員様をみるとね。ところが、会社には勤勉な職工を社員にするという規定があるんです。会社はそれを又実にうまく使っているようです。ずウッと前に一人か二人を思い切って社員にしたことがあります。然しそれはそれッ切りで、それからは仲々したことが無いんですが、そういうのが変にき[#「き」に傍点]いてるらしいんです。
河田は誰よりも聞いていた。鈴木は然し最後まで一言もしゃべらなかった。拇指《おやゆび》の爪を噛んだり、頭をゴシ/\やったり――それでも所々顔を上げて聞いたゞけだった。
森本は更に河田から次の会合までの調査事項を受取った。「工場調査票」一号、二号。
河田はこうしてY市内の「重要工場」を充分に細密に調査していた。それ等の工場の中に組織を作り、その工場の代表者達で、一つの「組織」と「連絡」の機関を作るためだった。「工場代表者会議」がそれだった。――河田はその大きな意図を持って、仕事をやっていたのだ。ある一つの工場だけに問題が起ったとしても、それはその機関を通じて、直ちにそして同時に、Y市全体の工場の問題にすることが出来るのだ。この仕事を地下に沈ませて、強固にジリ/\と進めていく! それこそ、どんな「弾圧」にも耐え得るものとなるだろう。この基礎の上に、根ゆるぎのしない産業別の労働組合を建てることが出来る。――河田は眼を輝かして、そのことを云った。
――ブルジョワさえこれと同じことを已《すで》にやってるんだ。工場主たちは「三々会」だとか、「水曜会」だとか、そんな名称でチャンとお互の連絡と結束を計ってるんだ。
暗い階段を両方の手すり[#「手すり」に傍点]に身体を浮かして、降りてくると、河田も降りてきた。
――君は大切な人間なんだ。絶対に警察に顔を知られてはならないんだからね。
森本は頬に河田の息吹きを感じた。
――「工場細胞」として働いてもらおうと思ってるんだ。
彼の右手は階段の下の、厚く澱んだ闇の中でしっかりと握りしめられていた。
彼は外へ出た。気をとられていた。小路のドブ板を拾いながら、足は何度も躓《つまず》いた。
――工場細胞!
彼はそれを繰り返えした。繰りかえしているうちに、ジリ/\と底から興奮してくる自分を感じた。
七
この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。
……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。
前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。
――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、表《おもて》に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。彼奴《きゃつ》等だって、ちァんと俺たちの運動の方向[#「方向」に傍点]をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。
――フうん、やるもんだな。
――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。
――オイ/\頼むぜ。
石川がムキな声を出した。
――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。
――また気味の悪いことを云いやがるな。
河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\掻《か》いて笑った。それから、
――本当だぜ!
と云った。そして腕時計を見た。
――今日は俺が先きに帰るからな。
河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸|躊躇《ちゅうちょ》を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている掌《てのひら》に力が入った。
男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。
――山[#「山」に傍点]田です。
すると、背広の男は直ぐ
――川[#「川」に傍点]村。
と云った。
「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河|端《ぶち》を下りて行った。少し行くと、男が、
――何処か休む処がないですか。
と云った。
――そうですね。
河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。
テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。
河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。
八
鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。
理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。
――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。
その言葉の陰は「それでも口惜《くや》しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であるこ
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