とを彼は知っていた。
 ――お前も案外鈍感だな。一緒に働いていて、河田や石川たちから何処ッかこう仲間外れにされていることが分らないのかな。
 彼はだまって外ッ方を向いた。――然し彼は自分の意志に反して、顔から血のひいてゆくのをハッキリ感じた。
 ――「手」だな、とお前はキット考えてるだろう。
 特高主任が其処で薄く笑った。
 ――それアねえ、僕らも正直に云って、そんな「手」をよく使うよ。だが、これが「手」かどうかは、僕より君が内心知ってるんだろうと思うんだ。この前、石本君とも話したが、鈴木は可哀相に置いてけぼりばかり食ってる。あれでよく運動を一緒にやって行く度量がある。俺たちにはとても出来ない芸当だって云ってたんだ。
 ――…………。
 ――……じゃ知らせようか。
 特高主任がフト顔をかしげた。鈴木はその言葉の切れ間に思わず身体のしまる恐怖を感じた。
 ――これは或いは滅多に云えない事だが、僕等はある方法によって、そこは世界一を誇る警察網の力だが、すでに河田たちが共産党に加入しているということの確証を握ったのだ。――ところが、それに君が入っていないのだ。……入っていないから、こんな事君に云える。嘘《うそ》か本当かは君の方が分ってるだろうよ……。
 ――…………。
 ――おかしい云い方をするが、僕はそのことが分った時、喜んでいゝか、悲しんでいゝか分らなかった。
 ――入っていないときいて、僕等が喜ぶのは勝手だと君は云いたいだろう。それならそれでいい。僕等はどうせ、人に決して喜ばれることの出来ない職業をしているのだから。然し「同志」というものゝ気持は、僕等からはとても覗《うかが》い知ることの出来ないほど、深い信頼の情ではないかと思うんだ。だが、君はそれに[#「それに」に傍点]裏切られているのだ。それが分ったとき、僕は君に対して何んと云っていゝか分らない、淋しい、暗い気持にされたのだ。
 ――勝手なことを云え!
 胸がまくれ上がって、のどへ来た。それを一思いにハキ出さなければならなかった。で、怒鳴った。――彼は胸一杯の涙をこらえた。
 特高主任は鉛筆をもてあそびながら、彼の顔をじッと見た。一寸だまった。
 ――そればかりではないんだ。紛議の交渉とか争議費用として受取った金の分配などで、君がどの位誤魔化されているか知れない。――河田たちが、そんな金で遊んでいる証拠がちァんと入ってるんだ。――それでも清貧に甘んじるか……。
 それ等が嘘であれ、本当であれ、彼が内心疑っていた事実をピシ/\と指していた。
 気にしまい、気にしまい、そう意識すると、逆にその意識が彼の心を歪める。河田と素直な気持ではもの[#「もの」に傍点]が云えなくなった。河田たちの顔を見ていることが出来なかった。自分ながら可笑《おか》しい程そわ/\して、視線を迷わせた。そして一方自分の何処かでは、河田の云うことに剃刀《かみそり》の刃のような鋭い神経を使っているのだ。
 少し前だった。何時も自分の宿に訪ねてくる特高係が、街で彼を見ると寄ってきた。
 ――君は大分宿代を滞《とど》こらせてるんだな。
 と、ニヤ/\云った。
 ――じゃ、君か!
 彼はそのまゝ立ち止った。刑事は大きな声で笑った。――四五日前、鈴木の友人だと云って、彼の泊っている宿へ来て、今迄滞らせていた宿代を払って行ったものがあったのだ。
 ――いゝじゃないか、こういう事は。お互さ。別に恩をきせて、どうというわけでないんだから。
 それから、一寸聞きたいことがあるんだが、と赤い薄い鬚《ひげ》を正方形だけはやしたその男が、四囲《あたり》を見廻わした。
 二人は大通りから入ったカフエー・モンナミを見付けた。そこのバネ付のドアーを押して二階へ上った。――特高は彼には勝手に、ビールやビフテキを注文した。
 ――断っておくが、こういう事は君たちの勝手にすることで、別に……。
 みんな云わせずに、
 ――分ってるよ。固くならないでさ。一度位はまアゆっくり話もしてみたいんだよ。――いくら僕等でもネ。
 と、云って、ヒヽヽヽヽと笑った。
 彼はもう破れ、かぶれだと思った。彼はそこでのめる[#「のめる」に傍点]程酔払ってしまった。――
「二階」の会合の時も、河田が急いでいたらしかったが、鈴木は自分から先きに出てしまった。ジリ/\と来る気持の圧迫に我慢が出来なかったのだ。――下宿に帰ってくると、誰か本の包みを置いて行ったと云った。彼はそれを聞くと、その意味が分った。
 二階に上って行って解いてみると、知らない講談本だった。彼は本の背をつまんで、頁を振ってみた。ぺったり折り畳まった拾円紙幣が二枚、赤茶けた畳の上に落ちてきた。
 彼はフイ[#「フイ」に傍点]に顔色をかえた。――拾円紙幣が出たからではない。知らずに[#「知らずに」に傍点]本の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。
 彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。

          中 九

 ――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!
 二階の函詰場《パッキング・ルーム》で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた函《はこ》は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。
 ――キイ公、じらすなよ!
 お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。
 ――ア、暗い。
 ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。
 ――こっちだ。
 男の手が肩にかゝった。
 ――いや。
 女が身体をひいた。
 ――何が「いや」だって。手ば除《の》けれよ。
 ――…………。
 お君は男の胸を直接《じか》に感じながら、身体をいや/\させた。
 ――手ば取れッたら。な。さ。ん?
 女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。
 ――駄目だ、人が来るど!
 男はあせって、のど[#「のど」に傍点]にからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。
 ――上手だなア。
 男が云った。
 ――モチ! 癖になるから、あんたとはこれでお終《しま》いよ!
 男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を翻《ひる》がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。
 お君は昼過ぎになってから、然し急に燥《はし》ゃぐことをやめてしまった。
 昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。
 ――ねえ!
 ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。
 ――驚いッちまった!
 女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。
 ――それがねエ!
 女は口を抑えて、もっと低い声を出した。
 男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。
 ――お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?
 ――…………※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 ――で、その女の人一体誰と思う?
 いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。
 ――誰だか分ったの?
 ――それアもう! そういうことはねえ。
 ――…………?
 ――芳ちゃんさ[#「芳ちゃんさ」に傍点]!
 ――馬鹿な!
 お君は反射的にハネかえした。
 ――フン、それならそれでいゝさ。
 女は肩をしゃくった。
 お君は一寸だまった。
 ――相手は?
 ――相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。
 何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。
 ――でも、妾《わたし》たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――淫乱《すき》なら無償《ただ》でやらせらアねえ!
 お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。
 ――馬鹿にしてる!

          十

 午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。
 ――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!
 女工たちは露骨な反感を見せた。
 ――口惜しいだろう! ――女学生が入ってくると、工場《ここ》のお嬢さん方の眼付が変るから。凄《すご》いて!
 ――眼付きなら、どっちがね!
 ――オイ、あまりいじめるなよ。たまには大学生様[#「大学生様」に傍点]だって参観に来るんだからな。
 何時でもズケ/\と皮肉なことを云う職工だった。
 ――と、どうなるんだ。大学生様と女工さんか。ハ、それア今|流行《はやり》だ!
 ――ネフリュウドフでも来るのを待ってるか……!
「芸術職工」が口を入れた。
 ――女学生の参観のあとは、不思議にお嬢さん方の鼻息がおとなしくなるから、たまにはあった方がいゝんだ。
 年老った職工が聞いていられないという風に云った。
 ――「友食い」はやめろって! キイ公まで黙ってしまった。――何んとか、かんとか云ったって……どんづまりはなア!
 どんづまりは? で、みんなお互気まずく笑い出してしまった。
「Yのフォード[#「Yのフォード」に傍点]」は、その完備した何処へ出しても恥かしくない工場であると云うことを宣伝するために、広告料の要らない広告として、「工場参観」を歓迎していた。「製罐業」を可成りの程度に独占している「H・S会社」としては、工場の設備や職工の待遇をこの位のものにしたとしても、別に少しの負担にならなかった。而《しか》も、その効果は更に職工たちに反作用してくることを予想しての歓迎だった。――「俺ンとこの工場は――」「俺の会社は――」職工たちはそういう云い方で云う。自分の[#「自分の」に傍点]工場が誰かに悪口をされると、彼等はおかしい程ムキになって弁護した。三井に勤めている社員が、他のどの会社に勤めている社員の前でも一つのキン[#「キン」に傍点]恃《じ》をもっている。そういう社員は従って決して三井を裏切るようなことをしない。「H・S」の専務はそのことを知っていたのだ。
 伝令が来た。幼年工を使ってよこした。
 ――来たよ。シャンがいるよ。
 ――キイ公、聞いたか。シャンがいるとよ。
 ――どれ、俺も敵状視察と行ってくるかな。
 同じパッキングにいる温《おとな》しい女工が、浮かない顔をしていた。
 ――ね、君ちゃん、私いやだわ。女学校なら、小学校のとき一緒の人がいるんだもの。
 ――構うもんかい!
 お君は男のような云い方をした。
 ――こっちへ来たら、その間だけ便所へ行
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